Ennyanja Nalubaale- ビクトリア湖

2011/07/10

緑の生活。情熱のフルーツ。



アフリカには緑のバナナがある。
ウガンダでは、マトケと呼ばれています。

それが突然、家の狭い部屋の一角を占めることになしました。マトケが勝手に歩いてきたわけじゃないんだけど、マサカです。

ついに、マトケ自炊生活がスタートしてしまいます・・・

ウチのヘッドティーチャーのセレス(仮名)はクリスチャン。チワンガラのチャーチへ通っているそうで、今日はそのセレスのチャーチがオークションをするというので、遊びに行きました。

教会の屋根のトタンを買うためのお金を稼ぐため、
みんなでものを持ち寄ってオークションの収益で屋根を作ってしまおうという目論見。

そうくると、日本で言う「バザー」の様な感覚で家庭で使っていないものなんかを持ち寄るのかと私は思ってました。
村人が農家たちだということを想像の外にしていました。




集まっていた品物はマトケ、サトウキビ、キャッサバなどの農作物。パパイヤ、パッションフルーツなどのフルーツ。鶏とヤギという家畜たち。

雑貨を期待していた私は「あ~、競りおとすすものないやん」とつい博多弁が出ちゃいました。

セレスと牧師に促され、屋根が途中までしかない教会の片隅に腰をおろす私。
「フルーツなら落としてもいいか」なんて思ってルガンダが飛び交う中を見守っていると

モンキーバナナ一株が10000ush(約400円)
サトウキビ5本        1500ush (約60円)

確かに村で買うより値段はかなりいい。みんなの信仰心の表れでしょうか。
サトウキビなんて1本100ush(約5円)で買えるのに。
そして、競にかけられる量が家庭用。一人暮らしの私にはどれも半分ぐらい腐らせてしまいそうな量。

面白いのは、マトケ一株と鶏やなんかをセットで競売にかけてます。(上の写真のような状態)
「別々にしてかけた方が、収益はいいんじゃないか?」と思ったのは多分私だけ。

そんな太っ腹な競売を見守って40分ぐらいたったでしょうか。
ふと私の隣にマトケと豆の入ったビーにーる袋が置かれるではありませんか!
マイクを持ったMCのセボがなにやらルガンダで「おまえにやる」見たいな事を言ってきます。
すると、牧師が「日本人の君が来てくれた、たから彼が買ってくれたよ」と教えてくれました。

「え?さっきマトケ一株と鶏で3万シルはいっとったよ?」と内心申し訳なさ
そして「いや、マトケこんなに食べられんばい!!」と困惑。

いや、「ていうか、マトケは好んで食べないんですが・・・」

ウガンダでは鶏は貴重品。鶏のモモを焼いたやつでも2000ushもするぐらい。ちなみに、牛肉o.5kgに相当。これは村で1日で使う金額の90%を占めます。

その後、お返しの気持ちもこめてパッションフルーツ数個に「Nkumitaano!(5000)」
この値段ならいけるだろうと思ったら、ニャボ(女性)が「Nkumitaano bitaano!(5500)」とあげてきたではありませんか。
「こっちは他に競り落とすものがないんだよ!!」とボクも5700とあげていきます。
壮絶なるデットヒートの末ニャボが6500で競り落としました。

よっぽどパッションが食べたかったんですね。その情熱に負けました・・・
その後、パッションの機会はありましたが、私は別のものに気を魅かれました。

つづく。

それにしても、マトケのプレゼントはうれしさあまって憂鬱間100倍です・・・

死に場所を探して

その日、マトケ畑の中にすえられた墓穴のトタンはひどく鈍色に輝いていました。

亡くなったのはウチの生徒のおじいちゃん。
御歳80歳を越えたおじいちゃんだったそうです。

午後授業を終え、3時半過ぎに子供たちとチワンガラ村の西側にあるお宅へ向かいました。
今回はヘッドティーチャー(校長とか、主任みたいなポジション)のセレス(仮名)と2人で引率です。

ウガンダにも香典の文化があります。ウチの先生たちで香典を包みました。
アメリカでは香典の文化は無かったように記憶していますが、ウガンダではお金だけでなく一言メッセージを書きます。
セレスが紙切れに一言書いていました。

お宅ではすでに埋葬をしている途中。
木製の棺桶にトタンと金網をかぶせセメントでふさいでいました。
今回は間近でみることができました。土葬の埋葬はもっと粛々と行われると思っていたのですが、農作業のよう。数人の男たちがスコップ片手に作業をすすめます。
墓穴の隣で土の上でセメントと水を混ぜ、それをそのままスコップでトタンの上にドスドスのせていきます。
セレスもスコップを持ってセメントを放り投げていきます。
墓穴の横に座り込んでいる、子供に容赦なくセメントが飛び散ります。

ボクは内心「あ~あ、服が。」

家路の途中ウガンダの葬式についてセレスがいろいろ教えてくれました。
お金のある家庭は木の棺桶やセメントを用意するそうです。お金のない家庭は木の皮のバーククロスでご遺体を覆い、トタンの上に土をかぶせるそうです。

また、埋葬場所のことも教えてくれました。
なぜ畑の中なのか、墓地は無いのかと聞いたところ
「土地を持っている家庭は自分の土地に埋葬するんだ」
「墓地は土地の無い家庭の人が埋葬する場所だ」
「それに、カンパラに住んで死のうが、自分の土地がチワンガラにあればこっちまで遺体を運んで埋めるんだ」と。

ウガンダ人の土地に対する考え方の一端を見た気がしました。
この国では土地を持つことは死に場所を持つことと同義なのかもしれません。

土地に関して更なる勉強と考察が必要のようです。

2011/07/07

水が(沸)騰

今日村に帰ってびっくりした。。。
物の値段が上がっている。

チャパティは小麦粉の高騰で以前から100ush上昇していたが、ソーダも100ushあがった。
水にいたっては倍! 今まで300ush(これでも他の隊員からは高いといわれる)が一気に600ushに。
300ushって、キャベツが買えちゃうよ?
今日はウチの水汲み屋さんに電話したら「病気だ」といわれたので、他の人を村で捕まえた。

事実ウガンダシリング安がとまっていない。
先週$1=2600ushまで値がさがていた。
今週$1=2530ushぐらいまであがっていたけど、先輩隊員に聞くと半年前より確実に安くなってきているらしい。

ボクは現金収入で生きてるからいいけど、村人は大丈夫か?
自給自足的生活をしている人間が現金に依存する生活をしはじめる予兆か?

こんど、ウチの水汲み屋さんに何であがったか聞いてみよう。
水は絶対に必要なものなのにコレだけの値上がりは異常だ。

2011/07/05

思考停止に陥らない

派遣後3ヶ月がたちました。
そして、次期の隊次、平成23年度1次隊が赴任してきました。
まだまだ知らないことばかりなのに、新米といえなくなるのは複雑な気持ちです(笑)
でも、2年たっても知らないことばかりなのかなと感じてもいます。

今はまだまだ活動でのアウトプットを気にするよりも、知識情報をインプットする次期だとは思います。
ただ、そのインプットは常にしていかなければいけないことかもしれません。

知ることについて、当たり前のことを。
無知の知とえらい哲学者も言っていました。知ることは知らないことの認識からはじまるのではないでしょうか。
その知らないことをいかに知るのか。自己の持っている知識・習慣との「違い」を体験・認識することで無知の知をしることができます。
その違いの体験・認識以外にも自らの無知をしる方法はあるかもしれませんが。

ウガンダでの生活の中で多くの違いを体験しています。
例えば嗜好品。

ウガンダ人は紅茶をよく飲みます。
紅茶の入れ方は粉末にした紅茶葉をスプーンのえで2から3杯コップに入れます。そのあとにサトウキビから精製された砂糖をたっぷり
同じコップに入れます。そしてお湯をそこに注ぎ、かき混ぜてそれを飲みます。
この紅茶の飲み方は日本とは違います。この違いの認識から「なぜ」を自問し始めることによって知を発展させることができます。

なぜ紅茶なのか。なぜコーヒーでないのか。
なぜ紅茶を粉末にするのか。なぜ砂糖を入れてで飲む人がおおいのか。

植民地時代の宗主国イギリスの影響からかもしれません。
コーヒーに比べ紅茶のほうが飲めるようになる行程が少ないからかもしれません。

「なぜ」を自問するとは知るべきことを再認識させてくれます。そうすることで正確な知識を身につけようとする姿勢を保つことができます。
「紅茶を飲むのはイギリスからの影響だろう」と決め付けることは簡単ですしその可能性は非常に高い気はします。
しかしそこでさらに「なぜ」と自問しなくなると思考停止状態に陥ってします。

中途半端に知ることは知った気になり、思考停止になります。
正確な背景を追求することがウガンダを本当に知ることにつながると感じます。当たり前ですけど(笑)

2011/06/22

土に還る

ウガンダの田舎ではどこに墓地はあるでしょうか?チワンガラ生活でふと疑問におもったことでした。
家のお向かいでお葬式がありました。

お向かいといってもボクのうちは車が通れる道路から少しうちに入っているので距離は40mぐらい。
数日前、午後の授業中になにやらあわただしいのがみられました。子供たちいわく誰かが亡くなったようだと。
そして4日後木曜日だったと記憶していますが、同僚のテディーが水曜の夕方「明日、お葬式があるから私たちも参加するよ。ぴったり2時からだからね」と教えてくれました。
そして翌日、午前3時に音楽が流れてきました・・・それも結構な音量で・・・
夜中の爆音音楽は毎週2回は平日週末問わず必ずあることですが音楽の内容もいつもクラブから流れてくるレゲエではなく「ハレルヤ」なんて聞こえてくるのでお向かいとだと見て、外にでました。

暗がりの中うごめく幾多の人影。なにやら準備をしている模様。
その夜は用を足して床に入りました。もちろん熟睡なんてできませんが・・・

さて次の日。昼食を終え自室へ帰り2時を待ちます。
ちなみに服装はいたってラフ。同僚にドレスコードを聞いても「適当でいいよ」とのこと。実際参列者の格好もまちまち。
ただ、親族やそれに近い人は襟付きのシャツ。女性はゴメスといわれる正装。肩のとがったロング丈の派手ながらのワンピースドレス。それをビビットな帯で結ぶスタイル。

自室で本を読んで時間をつぶしていた私はうっかり2時を5分ほど過ぎているのに気づいてあわてて外へ。
「ぴったり2時とはいってもウガンダタイム。1時間2時間遅れるのは当たり前。」
その認識はあっさり裏切られ、なんとぴったり2時にはじまっていました。
(普段もこんな感じだと、もっと物事がよくなると思うんですけどね)
そのくせ、ウチの同僚たちが子供を集めて参列したのは2時半ごろ。
詰めの甘さはウガンダ人。

日本のお葬式とは違いウガンダでは外で執り行われるようです。
ブルーシートを家の屋根からかけてその下にご遺体を安置。
ご遺体はルブゴと呼ばれる木の皮で作られた布で巻かれています。その上には2本の木の枝を釘でくっつけただけの「え?そんなんクオリティーでいいの?」な十字架。後になって考えればお金の無い農家ですし、木ならそこらじゅうありますから当然なのかもしれません。それに「自分たちで作ったものの方がいい」と考えたのかもしれませんし。真意はわかりません。
それと生前の写真。この点は日本と同じですね。亡くなったのはおばあちゃんでした。
セレモニーは牧師の説教と鎮魂歌(requiem)の繰り返し。説教の間、歌が歌われていることもありました。

あるところまで進行すると近しい人が牧師のところへ行き、なにかを牧師の手から口へもらって食べていました。

こういう時、アメリカ生活の間に葬式の1つでも出席していれば比較対象があったのでしょうが、無いことを幸いに思いましょう。

そして葬儀は2時間20分ほどで終わりを迎えました。
そして親族が立ち上がり列席者も道を空けだしました。
私は墓地の場所が判明すると思っていたのですが、意外なところにご遺体は向かいました。
その家の裏手にはマトケ畑(緑のバナナ)が広がっているのですがそのマトケ畑の中にすでに墓穴は掘ってありました。
その中にレクイエムを歌いながら安置、木の枝で柱を作りそのうえにトタンをかぶせそして土をかぶせていきます。

土葬のウガンダですからこれを呼んでくださった方が何を感じるかは私とそう変わりはしないと思います。
しかしコレでうまくまわっているのが今のウガンダの社会です。
「このままでいいのか?」と思う材料は人口増加とか土地の問題など挙げればきりがありません。
しかしコレでいままでやってきたのです。

このようなことが伝統ならその他のことでも「伝統」はあります。ごみの処理とか。
そのようなことを「変えることは可能か?」そして「変えることは必要なことか?」ということ。
隊員として活動する上で、いや国際協力をするうえで常に頭においておかなければいけない設問だとおもいます。

後日フィールドワーク中に偶然見つけたお墓