Ennyanja Nalubaale- ビクトリア湖
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2013/01/21

ウガンダのブガンダ王国の氏族性( クランシステム)



ウガンダには40を超える言語があるという。民族も多数派のガンダ族をはじめ、テソ族、カラモジャ族、ニャンコレ族など様々で典型的な多民族国家だ。

私の住む地域はガンダ族(現地語:バガンダ)の住む地域のブガンダ王国の西のはてにあたる。ブガンダ王国には国王(カバカ)がいる。しかし、主権国家としては機能しておらず、ウガンダ国内の一民族の一文化圏として機能している。ちなみに、最近テソ族の長についたのが、アメリカ留学中の若干21歳の女王様だそうだ。ウガンダ国内を旅行すると、民族の違いというか、キャラクターの違いを感じることが多くある。そんなブガンダ王国のクランシステム(氏族制度)について少し調べてみた。そしてブガンダ王国だけでなく、多少の差違はあってもほかの民族にも存在している。

ブガンダ王国には53の氏族(クラン)がある。そしてすべてのガンダ人がどこかのクランに所属している。動物や虫の名前のついたクランがほとんどだが、「キノコ」とか「編み棒」なんて名前のクランもある。

クランシステムは400年前には存在していたと考えられ、当時は現在の王朝とは別のものだったようだ。そして現在の王朝がチントゥ王の出現により立ち上がった。その後、さまざまなクランが王国の外部から持ち込まれたり、王国内部で分離・統合がおこなわれた。

クランは大きく4つに大別することができる。
1.北からきた6氏族(マンバなど)。チントゥ王出現以前から存在したクラン。
2.チントゥ王出現と成立時期を同じとする16の氏族(チマ族など)
3.ブニョロ地域出身のチメラ王によって持ち込まれた11氏族(ガビ族など)
4.その他20の氏族。個別にブガンダ王国へ入り、元のクランからの独立や統合によって形成されていった(エンテ族など)

クランの構造
6つの下部構造があり、下から
・Nyumba いち核家族
・Luggya 祖父の家族も含める
・Mutuba 曽祖父母までの家系図に拡大
・Lunyiriri 
・Ssiga
・Kasolya
 NyumbaとLuggya以降、どこまで拡大していくか調べられなかった。個人的に推量した。

それぞれの階層で意思決定プロセスは存在するが、社会的文化的に意思決定できないイシューについては、仲裁の制度がある。家族で意思決定できないことがらについては祖父母などの血縁が仲裁。それでもダメなら遠い血縁が仲裁。それでもだめなら・・・といったぐあいに、その頂点がカバカということになる。つまり、社会的な決定事項は家族や血縁で決めていきましょうよ、というもの。日本の氏族性(明治以前に限る)も似たようなものだったのではないだろうか。ウガンダでの社会的に重要かつ典型的なイシュー。それは誰を族長にするのかという課題だ。

これは私見だが、仲裁できる人間が近くにいる必要があるので、地域によってマジョリティのクランが存在していたと考えられる。しかし、車やバイクの導入や経済活動が優先、近代化するにつれクランの移動も激しくなったのではなかろうか。この前提にたつならば、今後ブガンダカルチャーの拡大、新クランの設立なんかも、遠い未来のことじゃないように思える。

このクランシステム、面白い特徴がある。

まずは名前。クランによってつけられる名前が決まっている。逆に言えば、名前を聞けばどのクランの人間かすぐにわかるのだ。とはいて、ひとつクランでつけられる名前が限られているので、よくかぶる。そんな時宗教名で区別されることになる。 同じカトゥンバでもフランシス・カトゥンバとサイード・カトゥンバは別人、というふうになるわけだ。例外はあるらしい。親は別のクランの名前を付けることも可能。また、族長の名前は決まっていて、誰が族長になっても決まった名前に変えなければならない。

双子の名前はクラン関係なく決まっている。
兄妹の双子はカト(兄)・ナカト(妹)。
姉弟の双子はバビリエ(姉)・ワサワ(弟)
など

ほかにも、特別な名前があってこれもクランに関係なくつけられる。
ムシシ。意味は地震。地震の最中に生まれた子供はこう名付けられる。
チワヌカ。意味は「落ちる」。突然生まれた子供だそうだ。


次に自分のクランのシンボルを傷つけてはいけないこと。
例えば、エンテ(牛)クランの人間は牛を殺せないし牛肉を食べられない。セネネ(バッタ)クランはバッタを殺せない・食べられない。

クランごとにダンスをするときの太鼓のリズムがちがうらしいが、一地域に多数のクランの人がいる現在ではミックスされているのではないかろうか。

インドのカーストシステムが同列カースト内での結婚を慣習としていた(インターカースト結婚が増えてきているらしいが)のに対し、バガンダクランシステムでは他クランとの結婚を義務付けている(自分の母親のクランの人間とも結婚できない)。それは本来の機能としては近親相姦を禁止するためであったに違いない。しかし現在の人口の増加と地域移動が平易になったことを考えると、慣習として残っているのではなかろうか。

ウガンダにいると、クランの名前をもらう外国人はおおい。ちなみに私は始めカスレ(チマクラン:サルのクラン)、今ではブケニャ(ガビクラン:ウガンダコブのクラン)を名乗っている。ボクの生徒たちがつけてくれた。名前を変えたのは誰も呼んでくれなかったから。ブケニャになっても誰も読んでくれないのは、「カイト」が発音しやすい名前だからだ。

よく村人が「お前は何クランだ」と聞いてくる。これは2つの理由があって、一つは兄弟かどうか。もう一つは恋愛対象・結婚相手として対象内かどうか。日本ではその人となりをみわける変数に「年齢」「性別」「職業・職歴」「出身地域」「免許(できること)」なんかを履歴書に記載するが、ウガンダではその人となりやそんな変数に「クラン」がある。

ほかのアフリカではどんなクランシステムがあるのだろう。

参考ブログ: in my life 「ふたごの名前はいつも」
                  http://ameblo.jp/chamachama105/entry-11382319841.html




ンガビ(ウガンダコブ) @マーチソンフォールズ国立公園

2012/10/21

マラリア


になった。ちょっと古く7月の話なのだが・・・アフリカでは最もポピュラーな病気。人気があるからといって、あなどってよいものではなく悪化すれば死んだり、脳に後遺症がのこったりする怖い病気。

マラリア。せっかくなので経緯と治療方法をまとめてみたいと思います。

 ある日の夜に寒気がした。体温は平熱。
この日は風邪かと思い鎮痛剤を服用。

 2日目~3日目の午後まで、軽い頭痛。体温は37度程度。
この期間は鎮痛剤とパブロンを服用。3日目はあまりの治らなさに「風邪じゃないかも」とうっすら・・・
ただ、この時はアメーバウィルスなどの病気もありえると想定していた・・・

 3日目夜。頭痛がひどくなる。体温は38.5度。
マラリアチェックをすると、うっすらとポジティブの線が・・・
悪寒がひどくガタガタ震える。多分この時は40度を超えていたと思われる。
鎮痛剤を服用すると今度は熱くて仕方がない。布団をはぐ。寒くなる。布団をかぶる。熱くなる。この繰り返し。寝れない。

 
 4日目朝。頭痛はひどい。体温は39.2度。
この時点でマラリア確定ランプが点灯。チェックをすると見事当確。
しかし、意識ははっきりしているし、体も頭痛以外は問題ない。ピンピンしてる。「100m走に出て」といわれれば出れるぐらい。
といってもマラリア。病院へいって血液検査を受けたあと、支払いを済ませている最中に急に苦しくなる。立ってられない。吐き気が襲う。(嗚咽をもらしたのはこの時の1回のみ)
そしてすぐにベットに横になる。寒くて仕方がないが、看護師によれば脱水症状を起こしているので薬を飲んでも吐き出すだろうからまずは脱水症状をなんとかしましょう」と。点滴を3本(1.5L)入れる。

 私の場合のマラリアの治療方法は以下のようなものだった。
コアテム(マラリア原虫を殺す薬)を服用。8時間後コアテムを服用。
1回目のコアテム服用後、吐き気どめ、メフロキン2錠、鎮痛剤2錠を服用。
この間ずっと点滴が手の甲に刺さっている。
最後の方は暑くて汗をかくぐらい。

 トータルで病院に5時間強いて、体内に入れた点滴は3L。顔がむくんでむくんで。
病院から帰ってからは頭痛もなく。体温も平熱だった。

5日目以降は1日に1回4錠コアテムを朝に服用。これが9日目まで続いた。
7日目と8日目は頭痛があって歩くのも実はつらかったが、熱はなくすごした。

9日目以降はドキシサイクリン(抗生物質)という薬に移行。これが10日間つづいた。


 自業自得です。副作用の強い予防薬を飲むのをやめた自分が悪い。まあ、でも家族が死んだとか、自分がHIVに感染したとか。そんな夢を毎週みて精神的にやられるのも嫌だったし。ただでさえストレスのたまる生活環境なので。

おかげで献血できない人間になってしまいました。ちょっと献血すきだったんですけど。

仕方がないので、再発防止の対策をとるだけです。

ご心配をおかけしたみなさま、どうもすみませんでした。そして気にかけてくれたみなさん、ありがとうございます。

と、3ヶ月前にのこしていました。それ以降マラリアにはなっていません。

2012/08/06

夢の国の現実


以前からブログで紹介しているが、うちは部屋が狭いのもかかわらず、多くのかたが訪れる。

他の隊員(授業を見学にきてもらっているが、私自身も参考になることがあるし、嬉しい限りだ)
ウガンダ人(特にシャン太はいつでも、ここは彼女の家になりつつある)
にわとり
ねずみ
コオロギ
ゴキブリ
クモ
へび


などなど。コウモリとカベチョロ(イモリ)は他の隊員どうよう一緒にすんでいるので、カウントしない。そしてこのなかで、一番私が嫌いな訪問者。ミッキーである。

他のどの訪問者よりも足音をたて部屋を物色する。(因みに最近蜘蛛の足音、コオロギの足音など虫の足音までわかるようになってきた)。ミッキーの狙いはバナナなどの果物か、コオロギなどの虫。
虫を狙うという意味ではカベチョロと生存競争をしているのだが、私という主がミッキーを敵視しているため、彼らはすぐに追い出される。

そして先週面白いことが起こった。

部屋でPCを使って夜中作業をしていると、ミッキーの足音がした。目を向けるとミッキーが堂々と立っている。「ハロー。ボク、ミッキーだよ!」とちょっと裏返った声で挑発してくる。「おまえ、くるなよ~」と話しかけながら私はホウキを手にして、この現実の4畳間から追い出そうとタイムングを伺っていた。夢の国はこの部屋の外にあるぞ、と。ところが彼はどういうわけが、「あれれ~、ボクの夢の国はどこだっけー」といいながら転がっていた1.5Lのペットボトルの中へ迷い込んでしまった。

そんなもんだから、ペットボトルをホウキで立たせて、フタしめちゃった。

そのままでは、うるさくて眠れないので、外へ放置。次の日の朝にはみまかられていらっしゃった。
これで、しばらくミッキーもミニーもうちにはこないはず。夢の国はウガンダにはないのです。
囚われのミッキー

2012/06/24

生活のストレスと活動のストレスと


ここにきて?ここにきたからこそ?活動があまりうまくいっていません。
いや、授業はやりがいあるし、子供の成長が見て取れて楽しいし。

だけど、大人と接するのがおっくうで、つかれる。

ウソつれるとね。

そんな古い人間関係の部分

そして

新しい人間関係の構築

が、今おっくう。

6月頭から新しいスタッフが10人増えた。

ここでおっくうと言っていては、何も前に進まないし、もっと悪くなる。

だから、これをチャンスととらえてあることを計画中。
来月の月別ミーティングが勝負です。

そんな、勝負の前にネタもないので、自宅紹介です。

一部屋です。

長屋で隣は同僚が住んでいます。

以前紹介したシャン太が気が向いたときに遊びに来ます。
邪魔になるときも多々あります。

まーしゃーないよね。



2012/01/11

新年の楽しみと新年の課題

色々書きたいことがたまってます。
まずは、新年のイベントから。

うちの孤児院に通ってくる子供たちは全員が全員孤児というわけではありません。
3分の1ぐらいが孤児で、エイズ遺児だったり、両親がなくなり家族や親戚に引き取られた子供たちです。
残りの子供たちも認定を受けた学校へ何かしらの理由(そのほとんどが金銭面)で通えなくなった子供たちです。

日本の一大イベントが1月1日だとすると、ウガンダでの一大イベントは12月25日とイースター(移動祝日)。キリスト今日の祝日です。その日は家で育てた鶏やヤギなどの家畜をさばき、ご馳走を食べる日。

昨年のイースターでは私は鶏肉をご馳走になりました。

残念ながらクリスマスは任国外旅行でウガンダにおらず未経験。

神父の挨拶
「あまりお金のないうちの子供たちはご馳走もなかなか食べられない」ということでスタッフが子供たちを呼んで、クリスマス・忘年・新年会をまとめてすることになりました。

まずはちょっと硬い新年のあいさつから。
神父を呼んで子供たちに教育を受ける意味と大切さを説いてもらいます。

その後、お楽しみタイム。ウガンダミュージックをバンバンかけて、子供たちは踊るオドル。
そのリズム感はもはや遺伝子としか説明できません。教室がまるでクラブ。

オドル踊る

そしてお待ちかね、ご馳走。
お母さんたちの炊き出し





メニューは米(ウガンダではもっとも高級な主食)、マトケ。
スープは牛肉。
つけあわせはキャベツ。
私もこれをいただきました。これが御節です。

その後さらにクラブ。
当初の予定ではレクリエーションを考えてあったのですが、子供たちが楽しんでいたので中止、クラブを続行。


そして5時ぐらいに解散。








いつもよりオシャレ
私も踊ってみた。でもかなわない。


 結果的に子供たちが大いに楽しんでくれたので私をはじめ、ダイレクターやその奥さん(彼女もスタッフの一人)そしてヘッドマスター(校長先生のようなひと)も喜んでいました。

ただ、残念なのが大人の方。

上記以外のスタッフが来なかったことです。

あと3人いるのですが、彼らは家族で新年の行事をするのでこれないとのこと。

ダイレクターもがっかりしていましたが、12月のスタッフミーティングで「1月1日にする」と全員で決めていました。私はその時「本当に全員これるのか」そして「子供たちがそんな大事な日にこれるのか」と問うたのですが、全員が全員「自分はこれる。子供もこれるはずだ」と言っていました。

自分たちで決めたことを実行できない。多くの課題の原因はココに集約され、「参加型開発」という世界の国際協力機関が掲げる旗印の最大の欠点がココに体現されているのだと感じています。



2011/11/17

セネネキャッチャー

私の住んでいる地域のマサカはウガンダでも有数のセネネ産地。

となると、前回エントリーの高級バッタ食材、セネネはいったいどうやって採ってるのよ?となる。
じゃあ、「行ってしまえ」と行ってきました、セネネ採取場!

 セネネは夜に光を使って集めて採る。
雨季になると夜な夜な工業地帯の様にコウコウと光をはなつ採取場。
今回初めてその中に足を踏み入れた。

採取方法はいたってシンプル。
ドラム缶をライトを中心にして並べ、その上にトタンを立て掛ける。
そうすると光に寄せられたセネネがトタンにぶつかり気絶
トタンを滑ってドラム缶の中へ。というわけだ。

近寄ってみると、思ったよりも大きなドラム缶とトタンの高さに圧倒される私。
働いているセボ(男性)に一日にどのくらい採れるのか聞いてみた。
するとドラム缶3分の2は採るというのだ!
まあ、大げさに言っているだろうから、「(多い時で)ドラム缶3分の2」と解釈したほうがいいだろう。
前回エントリーでコップいっぱいが6,000ughというのだからドラム缶1缶でいったいいくらの儲けになるのだろう。

電気代がかさむと思うが、それでも1日で余りあるほどの現金を手にすることができそうだ。

そういう今日、うちの村は停電なんですけどね・・・

季節モノのセネネ。
毎日採れるわけでもないし、毎回大量というわけでもないだろう。
それでもウガンダでの季節モノ産業の一翼を担っていることに間違いはないはずだ。

それはまるで、秋の栗。冬のカニ。そして雨季のセネネ。

あとアリとかも季節モノ。

ウガンダの季節モノをもっと探してみたい。





2011/10/18

ウガンダ的日本人

少々、愚痴気味な書き方をさせてもらう。

異国での生活は、全ての事象に「なぜ」と問い続けることと、積極的な情報収集に対してのモチベーションが下がってくる6ヶ月目以降の生活ではそれらをいかに保ち続けるか、いかに呼び覚まさせるかが大事になってくるだろう。

だが、いくら「なぜ」と問うても理解のできないことはある。

先週のある日、夜明け前から雨が降っていた。
やんでも、またすぐに振り出すという具合だ。

ウチの学校は子供が全員で集まって雨をしのげる場所など無い。
いや、ウガンダの学校全部に当てはまることかもしれないが。

なので朝の朝礼は雨がやんだすきをみて行われた。
朝礼はいつも8時からだが、今日は9時ごろになった。
それでも朝礼中に雨は降ってくる。

遅刻してくる子供なんて毎日10人ぐらいいて、体罰をうける。
内容はその日によって変わるが、今日は「雨の中ずっと立っておく」というものだった。

朝礼はいつもの1時間遅れ。
天候によっての予定変更はこの国では当たり前だし、仕方の無いことだと思う。

だが、その罰と他の先生の行為にボクは本気で腹を立てた。

朝礼中の先生は屋根のあるところに立って朝礼をながめる。
朝礼を終わらせると、遅刻してきた子供に雨の中立っているよう指示をする。

普段「子供の健康が~」とか「教育が~」とえらそうに正論をぶつけてくるくせに、そういうことを平気でする。それでいて、自分は教育者づらをする。

それが「ウガンダの教育方法だ」といってしまえば、それで終わりなのだが、それでは子供の健全な教育はできないとボクは思う。

大人が手本になるべきであるはずだ。
そいういう大人の行為を見て子供はどう思うのだろうか

今の大人は自分が子供だったとき、大人のそういう行為を見てなんとも思わなかったのだろうか

この学期は3学期で最終学期。この学期まではウガンダのやり方を学ぼうと思い、意図的に批判的な意見をすることを控え、忠実に彼らのやり方に従っていた。
「日本」とのやり方の違いを知らないまま何を言っても、受け入れられないだろうと思っていたからだ。
しかし、その「日本」がボクの中からそぎ落とされた今では、いいこと悪いことを判断することが感覚的にできるようになってきたと思えてきた。「ウガンダ的日本人」になりつつある。



だから、そろそろ、ブッコんでいってもいいですか?

2011/08/20

マーケットの歩き方 チワンガラ村


わがチワンガラ(Kiwangala)村では毎週土曜がマーケットの日。
日本に比べると海外のマーケットは歩くだけでも楽しいもの。
そんなマーケットの歩き方を紹介します。

まずはスナック
食べ歩きは行儀が悪いと教えられるウガンダ。みんなマーケットで買ってもウチまでちゃんと持って帰ります。
これはカデンゴと呼ばれる食べ物。はじめてみたので買ってみました。2個で100ush(約4円)
お米を丸めて軽くあげたもの。黄色くなっているのはターメリックかマサラだと思われます。
味はひと言「まずい」。べちょべちょの冷たい米の塊。「おにぎりに似ている」なんて決していえません。その点冷たくなってもおいしいおにぎりは米料理の王様ですね。
米だときいて4個も買ったのですが、1個食べて3つはお隣にあげました。

そしてオモシロ掘り出し商品
この日はアバクロのTシャツ2500ush(約100円)を購入。
そのほかにパタゴニアのR2のベストがあったのですが、ベストという実用性の無さから未購入。
以前マサカのマーケットではビルケンシュトックのサンダルを4000ush(約160円)で購入。

さらに昨日マサカのマーケットでVirginia Tech UniversityのロンTを購入。
その他University of Louisville のカーディナルスのパーカーを発見。
いつかMurray StateのTシャツを見つけ出すのが楽しみです。
(内輪ネタですみません)
こんな掘り出し物を探すのもマーケットの面白いところ。


最後にオモシロくつ画像でくくりましょう!説明不要です

2011/08/19

グルメレポート Katogo(カトゴ)

東アフリカではタンザニア・ケニアにおされ非常にマイナーな国、ウガンダ。そんなマイナーなウガンダにマイナーだからこその面白さがある!(かもしれない)

活動外のネタがつきてきたので、いつもフレッシュな目を持つという意味でも、こんな企画をはじめます。

ラベルを題して、「ウガンダの歩き方」
別になんの自慢にもならないラベルタイトルですがお付き合いください。
そして日本にいる皆さんに「ウガンダ旅行もいいかも」と思ってもらえたら幸いです。

そんな「ウガンダの歩き方」
一発目はグルメレポート!


日本から見れば未知の料理ウガンダ料理。
その一つKatogo(カトゴ)を紹介します。

カトゴとはマトケ(食用バナナ)を使った料理のことを指すらしく、ソースによって様々な味になります。以前マトケ一株をもらったときに毎日作っていたトマトソースのカトゴのレシピを今回は紹介します。

材料(一人分)
マトケ       15本
トマト        3個
(普通の)玉ねぎ   1個
塩          好み

まずマトケの皮をむきます。ポイントはバナナのお尻の方(普通にバナナをむくほうとは逆)からナイフを入れていくとむきやすいです。緑の皮が残っていたりするとゆでる際に黒く変色してしまうので注意が必要です。こんな感じに黒くなります。(味に変化はありません)

次に皮をむいたマトケをゆでます。
湯で時間は固さによってお好みですが、箸をさして貫通すれば充分でしょう。

火が2つある人はマトケをゆでている間にソースを作りましょう。
トマトいちょう切り、玉ねぎをさいの目切りにしますトマトはピューレの缶詰なんて使うと贅沢感がぐんとあがりますね。

熱した鍋にそれらを入れ、火が通るまで熱します。このさい水分が少ないとマトケと和える際に味が偏ってしまうので水を100mlほどいれてもよいでしょう。

食材に火が通ったら塩をいれます。大さじ3杯といったところでしょうか。
多いように感じますが、このくらい入れておかないとマトケの無味に味を加えられません。

塩をいれ味を調えたらゆでたマトケを入れ、和えます。
少々マトケが崩れても問題ないでしょう。

後は盛り付けて出来上がり。
ブイヨンやペッパーでアレンジをするとさらにおいしくなります。

トマトソース以外にもGナッツソース(ピーナッツソース)や豆ソースのカトゴがあります。



私個人としてはさっぱりトマトソースがお勧めです。

2011/08/16

きわどい遊び


突然ですがクイズです。エリキはシャン太に何をしているのでしょう?答えは最後に。

さて、今回は体罰についてです。体罰は日本でも私が中学生(10余年前)の時ですら議論があったぐらいですし、今もあるのでしょう。


ウガンダでの体罰は日本のそれとは少々違うので紹介します。

一番の特徴は細い棒を使ってぶつこと。ムチ(cane)を先生たちはヒュンヒュンならして
子供をぶちます。ウチの孤児院では子供を寝そべらせ太ももからお尻あたりをぶちます。
子供の反応は本気で痛がるときとへらへらしているときとcase by case。
ぶたれる理由はさまざま
・授業態度が悪い
・授業中しゃべっている
・課題をしようとしない
・忘れ物をした
など比較的しかたないものから

・服装の乱れ(服が汚い)
・手が汚い(洗っていない)
・態度が悪い
など先生側の気分でどうにでもなるような理不尽なものまで

ムチ以外の罰は
ニールダウン(ひざまずくこと)してレンガを持たされる。
腕をのばした腕立て伏せの状態でしばらく維持。体制が崩れるとcaneでぶたれるなど、端から見ると滑稽にも見えてしまいます。

私は体罰については全面否定をしません。
必要なときはあると思います。それは、その子が他人の身に危険を及ぼした時と重度のウソをついたとき。そしてその方法は平手打ち。幸いまだ私はまだ手をあげていません。

牛飼いが棒で牛をたたくように、子供をたたくのを見ていると、人間扱いしていないように私には写ります。

クラスのコントロールをすること、生徒の成績が悪いことなどはやはり教師の責任で子供はクラスを乱して当たり前、勉強したくなくて当たり前ですのでそれをうまくやるのが教師の仕事であり力の見せ所のように思います。

ムチをやめさせることは不可能でしょう。。。
学期初めのワークショップで他校の先生が「caneしたらいかんばい」と言っていたにもかかわらず
2週間後には先生みんなたたいていましたから。頭では駄目だとわかっていても。

悪ガキばっかり。言うこときかない。自分の力の無さを棚上げして(いやそもそもの教師像が私のそれと違う気がします。「ムチを打つ先生がいい先生」というように)子供に体罰という形で責任をとらせる。ムチを使わずにクラスをコントロールし子供をひきつけることのできる先生を目の当たりにすれば
変わるのかもしれませんが。そういう人材はここの周辺にはいないようです。

さらに、体罰の余波が・・・
学校には先生たちの子供がウロチョロしています。全部で4人。
そのうち大人のすることを何でもマネしだす年齢の子がシャン太とエリキ。

ある日ある先生が30人のクラス全員をぶっているのを2人が見て、私のところに来ました
棒を持って。
そして、ボクに棒を持たせ「カイトー、ぶってくれん~」とばかりそのばに寝そべるではありませんか(笑)
一応ぶつフリはしましたが、もはや体罰そのものが子供にかかれば遊びになってしまうことの皮肉に哀しみと諦めを覚えました・・・


しょーもな・・・

2011/08/02

病院のあいさつ

先週はじめ、のどが痛くなった。

熱もでた。
37度5分ぐらいまで。
症状は風邪そのものだったので、日本から持ってきた風邪薬を服用して2日寝てすごした。
それでも症状は軽減されずにほっといても治るとはおもっていても
手の感染症のこともあったので、今回は大事を取って病院へ。

病院はマサカにある私立病院。
ドクターに会って症状を訴えると「じゃあとりあえず血液検査しとこうかね」と物腰のやわらかそうなジェントルマンドクター。
”風邪なのに血液検査?”とその意図をすっかり忘れてて言われるがままラボへ。

そこで看護士のニャボのびっくり採血。
日本での採血方法と同様に二の腕にバンドをして肘の血管を浮き上げます。
ただ、”あれ?バンド緩くない?血管あんまりでてないバイ・・・?注射器ちゃんと狙えると?”
一抹の不安を抱えます。
ニャボは淡々と注射器の準備とボクの腕を消毒していきます。
”おお~、しっかり医療行為できとーやん”と上から目線のボク。
そしてチビッと浮き出た血管へ針をそわせていきます。

”確か採血って「その人の腕しだいで痛くもなるし、痛くなくなりもする」って誰かいっとったなー”
針挿入
”あ、痛くない。うまいのか、この人は・・・?”
ニャボ針挿入を止める。
半分引き抜く。
”あ”
ボクの体内で針がうごめく
”あ、グニュって鳴った”
半分引き抜いた針がぐっと押し込まれる。

”あ~あ”

・・・・。

そんな採血を済ませ結果をジェントルドクターへ見せると
「うん、君はマラリアにかかっとうよ。やっぱりね」

「え?うそー。全然辛くないよ?マラリアってもっときついっちゃないと?」
マラリアにもいろんな種類があるけんさ」


アフリカで風邪で病院へ行くと挨拶は「マラリア!」
さあ、みんな一緒に「マラリア!」

2011/07/21

本能という砂の上の家”人間”

ウガンダの高校で生徒がストライキをしたとの記事がNew Vision紙のWeb版を見ていて目に付きました。
”Kibaale school closed over strike”
http://www.newvision.co.ug/D/8/18/760679

ストライキの理由は重度の体罰、課外授業への課金、先生が授業をしないこと、生徒をからかったこと、とあります。

(もし本文を読んだ方で、私の認識違いがあったらご指摘ください)

先生側は「これは政府が学校運営の資金をくれんからだ!」と双方の言い分が食い違っている印象です。

ウガンダでは体罰や先生が授業をしないなんてことはざらにあります。
課外授業への課金は聞いたことありませんが、先生が生徒をからかったってのも「あるんだろうなー」という感想です。

体罰や生徒をからかうことについては別のエントリーで詳しく紹介したいと思いますが、
笑っちゃうようなことでストライキが起こりえるのがウガンダです。

給食がマズすぎて暴動が起こりそうになったとか、寮制の学校では生徒を管理しすぎて生徒が先生にくってかかったとか、
結構聞きます。
まあ、私の親世代の日本の給食も粉ミルクなんかがまずかったってききます。
でも「給食がまずくて勉強なんかやってられんばい!」ってならなかったのはなぜでしょう・・・

隊員仲間と話していて、よく上がる話題ですが、ウガンダの食事は食材はほとんどどこも同じ。食材の質なんて初めからありません。
しかし、作り方によってすごくうまくも、すごくまずくもなるのがウガンダの食事であるように思います。
学校によって炊事番が変われば問題が解決することもあるようです。

管仲が「衣食足りて礼節を知る」といっていました。
ウガンダに来てその普遍性と正確性をまざまざと見せ付けられています。
責務を重んじる心や礼節、仁義、は腹が満たされて始めて成り立つ考え方や理論なのだと。

2011/07/15

緑の生活。バナナのお酒。

ニャボの情熱に負け、パッションフルーツを手に入れそこなった私。

時間は12時をまわり「お腹も空いてきたし、マトケの調理をしにそろそろ帰ろうかいな」と思ってはいたものの、次から次へと出てくる出品物に期待をしてしまいます。

農作物しか出てこないのに・・・・
これが、貧乏性と言わずに、どう表現できるでしょう。。。

その、貧乏性が功奏してか、ムチョモと呼ばれる串焼肉が裏手から登場!
さらに、プラスティックのケースからファンタオレンジがおもむろに取り出されます。
「よし!これならいける!」と確信した私は目を細めてケースの中のジュースの種類を探ります。

「てやんでい、そんなケミカル色なジュースは真っ平ごめんだ。」と江戸っ子でもないのに江戸っ子気質が頭をもたげ、物色するのは、緑の山の形をしたヤツ

あ、マウンテンデューですね。

ちなみに略して「山デュー」。
ずっと昔から言い続けて一向に周囲にに定着した様子はありませんが。。。

「あ、あった。緑のヤツ」

ウガンダのいいところを一つ挙げると日本ではなかなか手に入らない山デューがどこでも手に入るところでしょうか。

私はムチョモと山デューのセットの登場を今か今かとまつわけです。
だが、待てども待てども出てくるのはファンタオレンジ・・・
「いったい何本のファンタオレンジがあるとかいな」
と思っているところに、MCのセボが緑のヤツに手をかけました。内心のガッツポーズと財布を握り締める手に力が入ります。

そしてまたもや壁が立ちふさがります。
今度はセボに5500ushで競り落とされるではありませんか!
スタートは1500ush。ボクは競の最初から声を出していたのに、5000ushまで出して。。。
村で買えば会わせて1500ushもしなにのに・・・

涙をのんでいたら、MCのセボが山デューを手渡してくれました。
「涙なんかのまずに、こいつを飲みな」と。
しかも、5000ushで(笑)
競に負けといて負けた値でほしいものが手に入るんだから、ウガンダ人は優しいです。ここも、ウガンダのいいところの一つですね。

ムチョモとマウンテンデューで息を吹き返しました。
「さて、もう少しねばるか」と思ったのはいいとして、実はこの時「帰りどころ」を完全に逸しただけで・・・時計は1時を回ります。「そろそろ帰って、洗濯をしないと」と腰を上げようとしたその時。

歴史は動いた

コーラの瓶につめられたホットチョコレート色をした何か・・・

セレスがこそっと「That's local beer made by sour banana.」
サワーバナナって何?と聞き返すと、ボクのもらったばかりのマトケを指差します。

コレを試さずしてウガンダを知ること無かれ

バッカスが私にささやきます。

そのささやきに耳を傾けている間、競はムチョモとベルというウガンダ産のラガービールのセットに移っていました。

教会でお酒を振舞っていいんですか?

そこはアフリカクオリティー

きっとファーザーも赤道直下で天からじゃ眩しすぎて見えなかったのでしょう。

マトケビールと本日2本目のムチョモを今度は無事にゲット。まずはマトケビールの臭いを確認。
ちょっと青臭い・・・

ボクは青二才。

味は発酵途中の地酒のような酸味。ちょっと白ワインっぽいボディー。
ムチョモを肴にしてもコーラ瓶1本はきつい。

アルコール度数は高くない。それなのに、あっというまに回ってきます。きっとバッカスの差し金だったのでしょう。

それをちょびっと残して、ふらふらしながら立ち上がり、セレスに一言「酔ったから帰る」。
お酒をたしなまないセレスからしたら、「ええ?このタイミングでそんな理由で?」と内心突っ込んでいたはずです。去り際に牧師から、「来てくれてありがとう、屋根代を出してくれてありがとう」とうれしい言葉をいただきました。

私自身クリスティアンじゃないですし、競りで買わなくても、村で安く手に入るものばかりでしたが、経験と村人との交流ということを考えればペイしたんだと感じています。

さて、千鳥を踏む足でマトケを頭に抱え家路についた私。

よくアフリカで頭にものを乗っけて歩いている写真なんか見かけますよね?
あれって結構難しい!
うまく頭の上で安定しない。通常バナナの葉をクッションにしているようですが、それなしでは脳天が痛い。頭上で安定しないので、支える腕がしびれて仕方が無い。

など、ニャボの様に軽々と頭キャリーをするには訓練が必要のようです。

家は村の中心をはさんで教会とは反対方向。村を突っ切って帰ります。

頭にマトケをのせた千鳥足のムズング


これだけで、笑いの種。「なんともおいしいところをもって行ってるんだろう」とほくそ笑んで帰宅しました。村人にちょっと受け入れてもらった気がします。

マトケ一株をもらったのは、「おいしい」とは思いませんがね。。

2011/07/10

緑の生活。情熱のフルーツ。



アフリカには緑のバナナがある。
ウガンダでは、マトケと呼ばれています。

それが突然、家の狭い部屋の一角を占めることになしました。マトケが勝手に歩いてきたわけじゃないんだけど、マサカです。

ついに、マトケ自炊生活がスタートしてしまいます・・・

ウチのヘッドティーチャーのセレス(仮名)はクリスチャン。チワンガラのチャーチへ通っているそうで、今日はそのセレスのチャーチがオークションをするというので、遊びに行きました。

教会の屋根のトタンを買うためのお金を稼ぐため、
みんなでものを持ち寄ってオークションの収益で屋根を作ってしまおうという目論見。

そうくると、日本で言う「バザー」の様な感覚で家庭で使っていないものなんかを持ち寄るのかと私は思ってました。
村人が農家たちだということを想像の外にしていました。




集まっていた品物はマトケ、サトウキビ、キャッサバなどの農作物。パパイヤ、パッションフルーツなどのフルーツ。鶏とヤギという家畜たち。

雑貨を期待していた私は「あ~、競りおとすすものないやん」とつい博多弁が出ちゃいました。

セレスと牧師に促され、屋根が途中までしかない教会の片隅に腰をおろす私。
「フルーツなら落としてもいいか」なんて思ってルガンダが飛び交う中を見守っていると

モンキーバナナ一株が10000ush(約400円)
サトウキビ5本        1500ush (約60円)

確かに村で買うより値段はかなりいい。みんなの信仰心の表れでしょうか。
サトウキビなんて1本100ush(約5円)で買えるのに。
そして、競にかけられる量が家庭用。一人暮らしの私にはどれも半分ぐらい腐らせてしまいそうな量。

面白いのは、マトケ一株と鶏やなんかをセットで競売にかけてます。(上の写真のような状態)
「別々にしてかけた方が、収益はいいんじゃないか?」と思ったのは多分私だけ。

そんな太っ腹な競売を見守って40分ぐらいたったでしょうか。
ふと私の隣にマトケと豆の入ったビーにーる袋が置かれるではありませんか!
マイクを持ったMCのセボがなにやらルガンダで「おまえにやる」見たいな事を言ってきます。
すると、牧師が「日本人の君が来てくれた、たから彼が買ってくれたよ」と教えてくれました。

「え?さっきマトケ一株と鶏で3万シルはいっとったよ?」と内心申し訳なさ
そして「いや、マトケこんなに食べられんばい!!」と困惑。

いや、「ていうか、マトケは好んで食べないんですが・・・」

ウガンダでは鶏は貴重品。鶏のモモを焼いたやつでも2000ushもするぐらい。ちなみに、牛肉o.5kgに相当。これは村で1日で使う金額の90%を占めます。

その後、お返しの気持ちもこめてパッションフルーツ数個に「Nkumitaano!(5000)」
この値段ならいけるだろうと思ったら、ニャボ(女性)が「Nkumitaano bitaano!(5500)」とあげてきたではありませんか。
「こっちは他に競り落とすものがないんだよ!!」とボクも5700とあげていきます。
壮絶なるデットヒートの末ニャボが6500で競り落としました。

よっぽどパッションが食べたかったんですね。その情熱に負けました・・・
その後、パッションの機会はありましたが、私は別のものに気を魅かれました。

つづく。

それにしても、マトケのプレゼントはうれしさあまって憂鬱間100倍です・・・

死に場所を探して

その日、マトケ畑の中にすえられた墓穴のトタンはひどく鈍色に輝いていました。

亡くなったのはウチの生徒のおじいちゃん。
御歳80歳を越えたおじいちゃんだったそうです。

午後授業を終え、3時半過ぎに子供たちとチワンガラ村の西側にあるお宅へ向かいました。
今回はヘッドティーチャー(校長とか、主任みたいなポジション)のセレス(仮名)と2人で引率です。

ウガンダにも香典の文化があります。ウチの先生たちで香典を包みました。
アメリカでは香典の文化は無かったように記憶していますが、ウガンダではお金だけでなく一言メッセージを書きます。
セレスが紙切れに一言書いていました。

お宅ではすでに埋葬をしている途中。
木製の棺桶にトタンと金網をかぶせセメントでふさいでいました。
今回は間近でみることができました。土葬の埋葬はもっと粛々と行われると思っていたのですが、農作業のよう。数人の男たちがスコップ片手に作業をすすめます。
墓穴の隣で土の上でセメントと水を混ぜ、それをそのままスコップでトタンの上にドスドスのせていきます。
セレスもスコップを持ってセメントを放り投げていきます。
墓穴の横に座り込んでいる、子供に容赦なくセメントが飛び散ります。

ボクは内心「あ~あ、服が。」

家路の途中ウガンダの葬式についてセレスがいろいろ教えてくれました。
お金のある家庭は木の棺桶やセメントを用意するそうです。お金のない家庭は木の皮のバーククロスでご遺体を覆い、トタンの上に土をかぶせるそうです。

また、埋葬場所のことも教えてくれました。
なぜ畑の中なのか、墓地は無いのかと聞いたところ
「土地を持っている家庭は自分の土地に埋葬するんだ」
「墓地は土地の無い家庭の人が埋葬する場所だ」
「それに、カンパラに住んで死のうが、自分の土地がチワンガラにあればこっちまで遺体を運んで埋めるんだ」と。

ウガンダ人の土地に対する考え方の一端を見た気がしました。
この国では土地を持つことは死に場所を持つことと同義なのかもしれません。

土地に関して更なる勉強と考察が必要のようです。

2011/06/22

土に還る

ウガンダの田舎ではどこに墓地はあるでしょうか?チワンガラ生活でふと疑問におもったことでした。
家のお向かいでお葬式がありました。

お向かいといってもボクのうちは車が通れる道路から少しうちに入っているので距離は40mぐらい。
数日前、午後の授業中になにやらあわただしいのがみられました。子供たちいわく誰かが亡くなったようだと。
そして4日後木曜日だったと記憶していますが、同僚のテディーが水曜の夕方「明日、お葬式があるから私たちも参加するよ。ぴったり2時からだからね」と教えてくれました。
そして翌日、午前3時に音楽が流れてきました・・・それも結構な音量で・・・
夜中の爆音音楽は毎週2回は平日週末問わず必ずあることですが音楽の内容もいつもクラブから流れてくるレゲエではなく「ハレルヤ」なんて聞こえてくるのでお向かいとだと見て、外にでました。

暗がりの中うごめく幾多の人影。なにやら準備をしている模様。
その夜は用を足して床に入りました。もちろん熟睡なんてできませんが・・・

さて次の日。昼食を終え自室へ帰り2時を待ちます。
ちなみに服装はいたってラフ。同僚にドレスコードを聞いても「適当でいいよ」とのこと。実際参列者の格好もまちまち。
ただ、親族やそれに近い人は襟付きのシャツ。女性はゴメスといわれる正装。肩のとがったロング丈の派手ながらのワンピースドレス。それをビビットな帯で結ぶスタイル。

自室で本を読んで時間をつぶしていた私はうっかり2時を5分ほど過ぎているのに気づいてあわてて外へ。
「ぴったり2時とはいってもウガンダタイム。1時間2時間遅れるのは当たり前。」
その認識はあっさり裏切られ、なんとぴったり2時にはじまっていました。
(普段もこんな感じだと、もっと物事がよくなると思うんですけどね)
そのくせ、ウチの同僚たちが子供を集めて参列したのは2時半ごろ。
詰めの甘さはウガンダ人。

日本のお葬式とは違いウガンダでは外で執り行われるようです。
ブルーシートを家の屋根からかけてその下にご遺体を安置。
ご遺体はルブゴと呼ばれる木の皮で作られた布で巻かれています。その上には2本の木の枝を釘でくっつけただけの「え?そんなんクオリティーでいいの?」な十字架。後になって考えればお金の無い農家ですし、木ならそこらじゅうありますから当然なのかもしれません。それに「自分たちで作ったものの方がいい」と考えたのかもしれませんし。真意はわかりません。
それと生前の写真。この点は日本と同じですね。亡くなったのはおばあちゃんでした。
セレモニーは牧師の説教と鎮魂歌(requiem)の繰り返し。説教の間、歌が歌われていることもありました。

あるところまで進行すると近しい人が牧師のところへ行き、なにかを牧師の手から口へもらって食べていました。

こういう時、アメリカ生活の間に葬式の1つでも出席していれば比較対象があったのでしょうが、無いことを幸いに思いましょう。

そして葬儀は2時間20分ほどで終わりを迎えました。
そして親族が立ち上がり列席者も道を空けだしました。
私は墓地の場所が判明すると思っていたのですが、意外なところにご遺体は向かいました。
その家の裏手にはマトケ畑(緑のバナナ)が広がっているのですがそのマトケ畑の中にすでに墓穴は掘ってありました。
その中にレクイエムを歌いながら安置、木の枝で柱を作りそのうえにトタンをかぶせそして土をかぶせていきます。

土葬のウガンダですからこれを呼んでくださった方が何を感じるかは私とそう変わりはしないと思います。
しかしコレでうまくまわっているのが今のウガンダの社会です。
「このままでいいのか?」と思う材料は人口増加とか土地の問題など挙げればきりがありません。
しかしコレでいままでやってきたのです。

このようなことが伝統ならその他のことでも「伝統」はあります。ごみの処理とか。
そのようなことを「変えることは可能か?」そして「変えることは必要なことか?」ということ。
隊員として活動する上で、いや国際協力をするうえで常に頭においておかなければいけない設問だとおもいます。

後日フィールドワーク中に偶然見つけたお墓

2011/06/05

ウガンダの教育

新学期が始まって2週間が経ちました。
私の活動も本格始動して2週間です。

今回はウガンダの教育について。一般的な面と個別の面を紹介していきたいと思います。

ウガンダの教育は
小学校(Primary)      7年
中学校(Secondary O'level)4年
中学校(Secondary A'level)2年
大学               4年
というようになっています。

授業時間は午前7時から朝課外。
そして8時半から午後4時までです。
その間休みは10時30分からの30分と午後1時から2時までの1時間の2回のみ。
授業間の休み時間、移動時間はありません。

こんな感じ。
7:00-7:40 朝課外
8:00-8:15 朝礼
8:30-9:00  授業1
9:00-9:30 授業2
9:30-10:00 授業3
10:00-10:30授業4





ただし、授業がこのスケジュール通りにいっていることは無く、前の授業しだいで授業をしたりしなかったり。

そして子供にとって最大の課題は小学課程7年を終えた後にある小学校卒業試験(Primary Leave Exam:PLE)。これをパスしなければ中学校へはいけません。
そのほかにも各学年の最後に進級試験がありパスしなければ留年します(基本的には認められていないようですが)

PLEの過去問を買ってみましたが、日本の中学1年生レベルとは思えない問題いくつかあります。
PLEの存在で一般的な学校はそのPLE対策に時間を割くようです。その結果情操教育分野(体育・音楽・図工)などはなおざりになる傾向があるようです。


ここからは私の配属先の孤児院についてですが
私が配属されている孤児院は小学校前(Nursery=幼稚園)の子供、年小と年中から小学校4年生(P5)まで設置しています。
私の孤児院はP5までしか設置していませんので、PLEなどとは無縁のところです。
P5までしか設置していない理由はNGOの運営能力によるものだと思われますが、真意はまだ確認していません。

私はこの2学期は英語・体育・算数を担当していますが授業時間はやはり守られていません。前の授業しだいで私の授業もずれ込んだりなくなったりします。特に体育はやはりなくなりがちです。この2週間で2回しかしていません。
1学年1クラスで約40人ほど。家の手伝いで来たりこなかったりする子供もいます。

授業内容はほぼ詰め込み式。
黒板で説明→練習問題
この繰り返しです。

この教育方法がいいのか悪いのかは別にして
そうなってしまう原因はいくつか見られます。

シラバス(指導要領)がない
ウガンダのシラバスは各学年ごと、各教科ごとべつべつで、全ての教科でそろっているのはP4のみ。その他の学年はあったり無かったり。

テキストがない。
子供がテキストを持っていないので板書して練習問題をさせる必要があること。

机が無い
子供は椅子兼机のベンチに座って授業をうけています。いつでも板書ができる状態じゃない。


特に体育に関しては、今現在私も困り果てています。
指導要領もグラウンドもありません。
あるのは空気のすぐ抜けるボールが数個のみです。



しかし物が無いからできないというのはいいわけです。

できることはあるはずです。

ヒントは自分自身の子供時代の経験だと感じます。

確かに私は団地のアスファルトの小さな交差点でサッカーをしていたし、そんなにいいボールを使っていたわけでもなかった。
それでも、毎日がすごく楽しかったし、それでよかったと思っています。

こどもは場所や器具のよしあしを気にしてはいません。
できること、大切なことの伝え方は必ずあるはずです。

2011/05/18

あいさつの意味

前回のエントリーではウガンダ挨拶に対して私の個人的な面倒さについてでしたが、今回はその奥に秘められたものを感じたので、ある仮説としてみる。

と、かっこつけて言ってみる。

「挨拶とは助け合うことの確認作業である」という仮説である。

その根拠はこうだ。
村ではものの貸し借りがある。
「飲み水をくれ」と隣人から言われることがある。
「電気をくれ」と隣人から言われることがある。
(私は今のところないが)「金を貸してくれ」ということもよくあるらしい。

井戸でくんだ水はそのままでは飲めない。畑仕事をしている子が"Assist me drinking water"といって家へ来たことがあった。

まあ、間違っている英語は目をつむる。ウガンダでは通じているから意思疎通はできるのだが、やはりまちがっている。それを直してあげようとは思わない。

それはさておき、彼はお隣さん。彼には村での生活のことをいろいろ教えてもらった。だから彼の家が目と鼻の先でも、いつも助けてもらっているしいいかと思いあげた。

また、こんなことがあった。
小腹がすいたので400ushだけ持って村の中心(トレーディングセンター)へ。とうもろこしをはじめて買ってみようかと思ったら500ushだった。しょうがないのでチャパティ屋へ。チャパティとは小麦粉を薄くのばして焼いたものでクレープみたいなお菓子だ。いつも料理をする気が起きないとき、村での生活を拒否していた時はチャパティのお世話になっていた。
チワンガラのチャパティの屋台は3つ並んでいる。私はいつも同じところで買っていた。
400ushだと2枚かえる。その日も2枚買うつもりで「二枚くれ」というと。
「お前はいつも俺のところで買ってくれる、俺のカスタマーだ。だから一枚まけてやる」と1枚よけいに包んでくれた。

この水をあげた隣人も、チャパティを1枚多くくれた兄ちゃんも会えば必ず挨拶する人たちだ。

逆の場合を考えてみる。日本の場合だ。
現代の日本で、あなたは隣人との挨拶はどのようにしているだろうか。

「こんにちは、ご無沙汰しています?」と近況の会話をしているだろうか?
会釈だけだろうか?
それても見てみぬふりをしているだろうか?

あなたはもし自分が困ったとき。急にお金が入用になったときに隣にお金を借りに行くことができるだろうか?

これは極論である。

日本とウガンダでは社会システムがちがう。
日本だとお金は金貸しからかりるだろうし、急病の時は救急車を呼べばいい。

しかし、ウガンダでは金貸しから金をかりることができるほど現金収入の余裕があるわけではないし、救急車も走っていない。
だから、バイクやタクシーの人と仲良くしとく必要があるし。
仲良くするために、相手が困っているとき助けないといけない。

”助けないといけない”というと義務のようになってしまうが「友達が困っているときに助けるのは当然だろう」と彼らは言う。

つまり助け合いというセーフティーネットがウガンダにはあるのだ。
日本はその助け合いをシステムにした。社会保障制度というやつだ。

挨拶とはある種助け合いのセーフティーネットの存在の確認作業の機能があるのではないだろうか。

私はあたってはいなくても、大きく外れているとは思っていない。

さてこの伝統的ともいえる社会の中に”モノとカネをもっている”と見える人間がいたらどうだろうか。
そのことについては次回のエントリーで。

2011/05/17

あいさつするのも楽じゃない

ここはウガンダ共和国ルウェンゴ県(Luwengo District)チワンガラ村(Kiwangara)。


アフリカではどうかわからないが、ウガンダでは外国人を見ると「ムズング!」と必ず声をかけられる。
Muzungu=Europeanがもともとの意味らしいが今では「白い外人」と言う意味で使われている。
この”白い”にもレベルはあるようだが、インド人は「ムズング」ではないようだ。

さて、本題であるが、挨拶からストレスが溜まるということと、そのストレス解消方について、私の心の中での出来事とあわせて記そうと思う。

チワンガラでの生活を始めた3日は蚊帳の中で暮らした。
完全に全てを拒否していた。
牛とヤギの糞を踏みしめて行くトイレも、触れば崩れ床を汚す砂も、腰が痛くなる堅い椅子も、さびの目立つドアも、トタン一枚の屋根も。
とくにトタン屋根。雨が降ればうるさく騒ぎ、鳥が止まればこれまたうるさく、夜中風が吹いて屋根と接している木がゆれれば目が覚める。

だから赴任時に持ってきたお菓子と水とPCをベッドの中(蚊帳の中)に持ち込んで、一歩も外に出なかった。

それでも、食料が、水が尽きれば外に出ざるを得ない・・・

不思議なことにこの時期は冒頭の「ムズング!」という呼びかけに快く手を振っていたし、挨拶も快くしていた。

とくに子供は、何回でもボクを呼び止め、振り向かせ、手をふらせる。
別にそれがいやではなかったし、「村の中に」とか「受け入れてもらうため」と思っていた。

いつだったろうか、突如としてそれが苦痛に感じるようになる。
くしくも、料理をはじめ、村の食堂で食事を取り、なんとなく生活らしいことができるようになってきたころだった。

何度も何度も同じ子供が「ムズング!」とボクのことを呼び続けることに嫌気がさすときが多くなっていった。
まあ、誰だって「外人!」だとか"Outsider"って言われて、常にいい気分でいられる人はいないだろう。
とは言っても、こちらの気分で子供の挨拶を無下に扱うわけにもいかない。

なので使い分けることにした。

1."Muzungu"だけの呼びかけには遠くなら気がつかないフリをする。
2.それに"How are you"がつくと、はるか後方からでも振り向いて手を振る。
3.前方からならどちらもなるべく挨拶をする。ただし気分が落ちているときは手を振るのみ。
4.一緒に歩こうとする子供には元気?ときく。
5.気分に余裕があるときは可能な限りちゃんと挨拶をする。

理想は当然5の状態だ。最近は慣れたせいかあまり苦痛には感じない。面倒だとは思うが。
常にそういうわけにはいかない。

根本的なところになるがボランティアとか人のために何かするというのは自分自身に気持ちの余裕がないとできない。
であるなら、「自分の気持ちの余裕の持ち方」、言い換えれば気分転換の方法を見つける必要がある。

今までなら体を動かすことと本屋とカフェのはしごだったのだが、本屋とカフェはない。
ランニングならできるが、そとを走るとやはり「ムズング!」と声をかけられる(笑)

「走っているから呼びかけにはこたえない」っていうスタンスで走ってみるか・・・
それを明日試してみよう。