Ennyanja Nalubaale- ビクトリア湖
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2013/10/05

協力隊員を振り返って(ナルバーレ廃刊)

協力隊員としての活動が終わって6ヶ月がすぎた。

「協力隊員」という肩書きから綺麗さっぱりと離れるために冷静に振り返りたい。今回は2本柱の一つNGOスタッフとしての活動を振り返ることにする。 





目次
1赴任当初の不必要性の認識
2スタッフ定着率から得た活動のヒント
3スタッフトレーニング
4トレーニングの期待効果と実施
5リサーチの不実行
6帰国後半年に振り返って


赴任当初の不必要性の認識
 赴任当初HIV/AIDS予防啓発活動ワークショップの手伝いと称してつれ回してもらった。次第に「ついて回る」だけでは自分が満足できなくなってくる。ついてくだけでは学びはないし、時間の無駄だと思いはじめた。なによりそのワークショップはうまく回っているのだ。手出しするところはないように見えた。海外の大手NGOの支援を受けて行われているワークショップで金銭的支援だけでなくプログラムそのものがパッケージされたものとして送られてきている点も理由としてあると後々理解した。

 配属NGOの外側で活動をして村人との接点に切望していたボクだったが、HIV/AIDS予防啓発活動以外のところで自らプログラムを立ち上げて行うまではできなかった。
 理由は2つ。まず時間的制約。生徒の面倒を見ながら村人と関わっていくことは難しかった。そして二つ目は(こちらが主な理由)代表の許可を得られなかったこと。組織の人間である以上その組織の名をしょって活動することになる。ボク(協力隊員として)は「村人と直接関わる」ことを最優先にしていて、NGOのターゲットグループや活動分野と関わる必要はないと思っていた。NGOの幅や機会・ポテンシャルを広げるという意味でも「外部者が内部者になる」ことのメリットはあるんじゃないか。ただ、その「NGOのターゲットグループや分野と関係のないところで活動する」というところに代表はひっかかりを感じたらしく、話し合いは平行線をたどった。最後まで。




スタッフ定着率から得た活動のヒント

赴任して1年と3ヶ月が過ぎた頃、セレスティン(最も信頼していた同僚)がうちのNGOを離れていった出来事を機に「個人の持つ暗黙知やスキルがその組織に定着・システム化する前に(形式知になる前に)、その個人は組織を離れてしまう」のではないかという仮定にいたった。

だったら、組織ではなく、個人に何か残る形でアプローチするほうが合理的だ。ボクは村人と直接関わることをあきらめ同僚の能力を上げることを考えた。

「何を?」の前に、ボクのNGOの問題点を上げてみる。
・継続したドナーを得ることができていない。プログラムベースの単発ドネーションばかり(ウガンダのローカルNGOはどこもこんなかんじだが)
・スケジュールどおりに物事が進まない(これはウガンダどこでもいっしょ)
・印象だけで物事を語る同僚たち
・専門性の欠如。「HIVのことを知っている」と言っても専門家ほどの知識を持っていない。にもかかわらずそのプロジェクトを進めないと行けないジレンマをもった同僚たち

そして、これから先のNGO業界の展望をウガンダに照らし合わせて考察してみる。現在の南米のトレンドがこの傾向にあるようだ。
・ウガンダへの援助総額額は減る
・減少したドネーションはより大きなインパクトを作ることのできる組織へと注がれる(その組織は受取額を増やしていく)
・プロジェクトベースの援助ではなく年数などの期間によってパートナーシップが築かれる。
・援助分野でみると意思決定プロセスへの参加(マイノリティの政治参加など)。社会経済権利や経済成長分野へ資金が投入される(BOPビジネスなどがこれにあたる)
・ある程度の経済成長を遂げるとNGOは「貧困」問題から「不公平」問題解決へとシフトしていく。

そんなトレンドがウガンダへ訪れた時に、ウチのNGOは生き残っていくことができるか。HIV/AIDSという専門分野は間違っていない。しかし専門性が必要であり。今後の生存率は極めて低い。ウチのNGOを弾力のある組織にするに何が必要か。
・ドナーを獲得する能力
          ロジカルに物事を考えられる力
          説得力のある計画書の書き方
・村の現状を引き受けて、ニーズを引き出す力
          リサーチ手法と問題点の洗い出し方法

スタッフトレーニング



<計画書トレーニング>
     コンテンツから説得させるための文章の構造などを紹介。さらにロジカルで説得力のある計画書には数字が必要です。じゃあ数     
     字の採ってき方(そして先進国NGOが一番求めているものですよ)を勉強しましょう。

<リサーチトレーニング>
     事実質問で問題の本質をつかみつつ、集めたデータを整理・精査して、計画書に取り入れよう。

トレーニングの期待効果と実施 
 トレーニングが終わるとコネやツテ以外の方法でドネーションを引っ張ってこれる人材になってくれるだろう。また、彼らが何かやろうと思ったときに「何から始めたいいかわからない」状態から「よし、これから始めよう」という状態になっていると予測した。物事を動かす時のファーストステップを手に入れられると。副次的な効果としてさらには自分の住む地域の問題点(問題意識)を得ることができ、NGOワーカーとしての軸を持ってもらえるんじゃないか。と期待した。

 計画書のトレーニングは全5回。グループワークでやってみたり、実際の申請用紙を使ってリアリティをもって考えることができるようにしてみた。「きたい人だけ、来て。強制はしないから。」そう言って始めたトレーニングは13人いるスタッフのウチ5人は確実に来てくれた。そして信頼できるスタッフを2人、手に入れることができた。これが大体去年の7月から12月までにやった活動。計画書のトレーニングが終了した時点で任期が残り3ヶ月で実際にリサーチをするには少々スケジュールは厳しかった。しかしやる気のある同僚もいるしできると思っていた。

リサーチの不実行
 リサーチを行うための準備はすべて終了していたが、結果的にリサーチは行わずに任期を終えることになった。質問票の作成、県庁への許可申請書、予算書の作成、訪問先の村の特定(500農家)。実行できなかった理由も2つある。まず時間。ボク自身に時間はあったが、同僚たちになかった。ウガンダ人の言う「時間がない」である。日本人的には「ある」のだが急がせなかった。急がせなかったのはボクが尻を叩いて急がせたところで学びにはならないだろうし、集めたデータの分析まで教える時間があるとは思えなかったから。そして最大の要因またまた代表とのすれちがい。これも理由はNGOの外側で活動する時にストップがかかったのと同じ理由で代表の許可がおりなかった。実は赴任後、半年でリサーチの計画を立てていた。そのときは金銭的理由でNGOが予算を出せないということで動かなかった。今回もおなじく金銭的理由でストップがかかりそうだったので、すべてボクのポケットマネーで行うと公言してからは金銭的トラブルはなくなった。ちょっと笑ってしまうエピソードなんだが、ボクがリサーチをストップさせると決めた時、同僚たちに「準備はすべて整ってる。あとはやるだけだよ。自分たちでやってみるのもアリだよ」と言った。すると熱心に参加してくれた同僚が「でもお金がない」と。

帰国後半年に振り返って
 同僚たちに伝えたかったこと。それは「お金がなくても、できることはあるよ」。全く伝わらなかっただろう。彼ら自身っても難しい立場にいる。というのはNGOの職員であり村人であるから。村人であるがゆえに主観的になりがちで、それがNGOの職員として一歩引かなければならない場面で引くことを許さない。だから彼らの書く申請書は20ページの長さで前半10ページはNGOの歴史や組織について延々と書かれている。もちろん文化背景がそうだからという理由付けもできるが、援助の世界は欧米の文化によって支配されている。それがいいことなのか悪いことなのかボクにはわからない。しかし de factoである。

 代表に関して彼はボクのボトルネックだった。反省点は今では明確だ。ボクと彼との間で何一つのゴールやビジョンが共有されていなかったことだ。例えば高校のサッカー部の部長と副部長がいたとする。部長は県大会ベスト8目標にしていて、一方副部長は優勝をだったとする。この目標の非共有は考え方や行動に差異を産み、相互不理解へとつながっていく。
 ただ、共有しようとしてできたか?それも難しいと今でも思っている。代表は組織の存続を第一に考えていたし当然「お金」を一番に考えていた。もちろんNGOの目指すビジョンを作るために。一方ボクはといえば二言目に「金」という代表と理解し合えないと決つけて「ドネーションを得るために、孤児の生徒たちを利用している」と嫌悪していた。今でもNGOの子供たちがうつったきれいな写真は好きになれない(ボクもブログに載せたりする矛盾をもちながら)。ボクはもっと”きれいな”国際協力の姿を想像していた。つまり代表は現実主義的でボクは理想主義的だったと言い換えることもできる。ここには正しいも悪いもない。「お金がない」という現実を前に「金がなくてもできることはある」と言っても説得力はない。それを実現しようと試みたが2年では短かったし、失敗に終わったといってよい。そして失敗は必然だったともいえる。

 


 「失敗」であった目標点に達することができなかったということで、ゼロではなかった。失敗ゼロではなくしてくれて、今でも前向きにとらえることができているのは同僚のおかげでだ。彼らに感謝してもしきれないくらいだ。生活面でも助けてくれたし、ボクのやることを助けてくれたり助言をくれたりと彼らなしにはさっさと帰国していただろう。今でも連絡を取る元同僚は何人かいて、かけがえのない出会いをもたらしてくれた隊員活動だった。




 失敗を回避するために妥協をしてドネーションを引っ張ってきていたらどうなっただろう?感謝されるだろう。NGOの命ものびるだろう。しかし根本的な解決にはならない。今思うのは「協力隊員ごときが組織や国際協力の根本的な解決はできない」と言うこと。配属先NGOの問題にしろ国際協力全体の課題にしろ、2年で好転できるほど要因は浅いところにない。
 2年間できるかぎり考え、行動し、待った。失敗はしたが得るものは多く、かけがえのない経験をした。経験をしただけでは何も変わらない。これからはこの経験を振り返り考え、国際協力全体の動きや考えと照らし合わせながらよりよいものを模索していく。そうすることでこの2年間の失敗の意味が出てくるの。失敗はただ失敗である。しかしそこから学ぼうとさえすれば、必ず価値あるものになってくれる。




これにて、Nalubaaleは廃刊となります。ここまで読んでいただいた方々本当にありがとうございました。これからも国際協力の模索を続けます。もしご興味がありましたら近々リリースされる新しいブログへ足を運んでいただければと思います。このブログでもアナウンスさせていただきます。2年と半年ありがとうございました。

2013/09/29

タンザニア旅行

隊員の時にしかできない旅行「他国の隊員の任地を巡る旅」



そう思って、タンザニアへ。


ザンジバル



 奴隷貿易時代はその拠点としてさかえ、それよりもはるか昔はエジプトが、マスカット・オマーンが象牙や香辛料を求めて往来した島です。サンジバルの語源は”ザンジ”。ペルシャ語で「黒人」を意味する言葉。ペルシャ語が語源という時点で歴史の長さを感じさせます。そして、東アフリカのスワヒリ文化圏の拠点となった土地でもあり、スワヒリ文化はイスラム文化の影響を色濃く残しています。スワヒリ文化圏は今のソマリアのモガディシュやキスマヨあたりからモザンビーク中部のソファラあたりまでの非常に縦長な文化圏だったとか。しかし反面、内陸へはたかだか30km程度という海岸沿いに集中した文化だったとか。スワヒリの語源は”サワーヒル”。アラビア語の「海岸、河畔」を意味しています。

 その文化圏の中心地だったザンジバル。青い空と碧い海。白い街がある島。海を見るのは1年11ヶ月ぶり。やっぱりほっとします。そしてコーヒー屋さん・カフェがとても多いところにタコの足を揚げたものやココナッツを売り歩いている売り子もいる。南国空気とアラビアの文化とアフリカ風土がごちゃ混ぜになった場所はとても魅力的でした。

さて、ザンジバルでは理学療法士隊員と井戸掘り隊員の活動を見学。
二人とも問題を抱えつつも少しづつ前に進めようとしていました。そして二人のザンジバル文化への適応加減も驚きでした。
何やら打ち合わせ 細かいコミュニケーションが成功の鍵

地下16mでの井戸掘り作業

本土へ向かい、村落隊員と自動車整備隊員の活動を見学。
二人ともスワヒリ語を巧みに使い仕事をしていました。そして二人の仕事に対する真摯な姿勢に尊敬しました。


スワヒリ語で指導しながら一緒に作業

隊員が建設指導をした道。以前はただの獣道だった



ウガンダとは全く違う景色に圧倒されるばかり。この広さはウガンダにはありません。



 タンザニアの行政上の首都ドドマから4時間ほど離れたコンドアの岩絵遺跡群まで足をのばしました。世界遺産の中でも人の訪れは少ない方だと想像できます。だってKiwangala村と大して変わらない村の規模。そしてアクセスの悪さ・・・それでも行ったのは人類発生の地のロマンを感じたいから。



 

 帰国した今振り返ると、他国の隊員活動を拝見することは貴重な体験だったと実感します。「なぜ自分が活動を失敗したのか」「うまくいっている人は何がそうさせているのか」そんなことを客観的に見れた旅でした。国が同じウガンダ隊員の活動を見ることも大きな勉強でしたが、そういった時は「ウガンダの文化・ウガンダ人」側から自分の活動や発言方法などを考えがちになります。しかし、国という共通項(東アフリカは残る)が無くなると「隊員活動の手法や姿勢」という自分たち側から活動を振り返ったり自己評価することができました。「そしてそれはこれから国際協力活動をする時に必ず役にたつと信じています。

2012/10/21

マラリア


になった。ちょっと古く7月の話なのだが・・・アフリカでは最もポピュラーな病気。人気があるからといって、あなどってよいものではなく悪化すれば死んだり、脳に後遺症がのこったりする怖い病気。

マラリア。せっかくなので経緯と治療方法をまとめてみたいと思います。

 ある日の夜に寒気がした。体温は平熱。
この日は風邪かと思い鎮痛剤を服用。

 2日目~3日目の午後まで、軽い頭痛。体温は37度程度。
この期間は鎮痛剤とパブロンを服用。3日目はあまりの治らなさに「風邪じゃないかも」とうっすら・・・
ただ、この時はアメーバウィルスなどの病気もありえると想定していた・・・

 3日目夜。頭痛がひどくなる。体温は38.5度。
マラリアチェックをすると、うっすらとポジティブの線が・・・
悪寒がひどくガタガタ震える。多分この時は40度を超えていたと思われる。
鎮痛剤を服用すると今度は熱くて仕方がない。布団をはぐ。寒くなる。布団をかぶる。熱くなる。この繰り返し。寝れない。

 
 4日目朝。頭痛はひどい。体温は39.2度。
この時点でマラリア確定ランプが点灯。チェックをすると見事当確。
しかし、意識ははっきりしているし、体も頭痛以外は問題ない。ピンピンしてる。「100m走に出て」といわれれば出れるぐらい。
といってもマラリア。病院へいって血液検査を受けたあと、支払いを済ませている最中に急に苦しくなる。立ってられない。吐き気が襲う。(嗚咽をもらしたのはこの時の1回のみ)
そしてすぐにベットに横になる。寒くて仕方がないが、看護師によれば脱水症状を起こしているので薬を飲んでも吐き出すだろうからまずは脱水症状をなんとかしましょう」と。点滴を3本(1.5L)入れる。

 私の場合のマラリアの治療方法は以下のようなものだった。
コアテム(マラリア原虫を殺す薬)を服用。8時間後コアテムを服用。
1回目のコアテム服用後、吐き気どめ、メフロキン2錠、鎮痛剤2錠を服用。
この間ずっと点滴が手の甲に刺さっている。
最後の方は暑くて汗をかくぐらい。

 トータルで病院に5時間強いて、体内に入れた点滴は3L。顔がむくんでむくんで。
病院から帰ってからは頭痛もなく。体温も平熱だった。

5日目以降は1日に1回4錠コアテムを朝に服用。これが9日目まで続いた。
7日目と8日目は頭痛があって歩くのも実はつらかったが、熱はなくすごした。

9日目以降はドキシサイクリン(抗生物質)という薬に移行。これが10日間つづいた。


 自業自得です。副作用の強い予防薬を飲むのをやめた自分が悪い。まあ、でも家族が死んだとか、自分がHIVに感染したとか。そんな夢を毎週みて精神的にやられるのも嫌だったし。ただでさえストレスのたまる生活環境なので。

おかげで献血できない人間になってしまいました。ちょっと献血すきだったんですけど。

仕方がないので、再発防止の対策をとるだけです。

ご心配をおかけしたみなさま、どうもすみませんでした。そして気にかけてくれたみなさん、ありがとうございます。

と、3ヶ月前にのこしていました。それ以降マラリアにはなっていません。

2012/08/11

先生冥利

 先週で2学期が終わった。


1学期に引き続き、メインで担当したのはP3(小学校2年生に相当)の算数。

期末試験の結果は平均点22点アップ!!
1学期の26点から48点までになった。

これは、私のおかげ

いやいや、子供たちが頑張ったのが一番

ここで、その要因を紹介する。

 まず、1学期が平均26点しか取れなかった外的な理由として以下のようなことが挙げられる。
・私の英語に子供たちが慣れていなかった
・同時に私も子供たちの反応、できる子、不得意な子がわからなかった
・私の授業スタイル等、手探りだった

 そして、今学期点数がのびた外的理由は
・私のスタイルが成熟し始めた
・そのスタイルを生徒が理解しはじめた
・生徒の反応がわかるようになってきた
 わからなくても、Yesというのがこっちの子供だが、本当にYesなのか、なんとなくYesなのか、NoのYesなのかがわかってきた。

 内的要因、つまり授業内容を見てみると、1学期は以下の単元のみしか授業でしなかった。
・ケタ、位
・3桁の繰り上がり足し算
・九九

 もちろん、その他に集合などの単元があったのだが、ルガンダで説明することが中心になる単元は同僚にやってもらって、計算中心の単元だけを回してもらっていた。そして、それは2学期も継続して割り振りをした。因みに2学期は時計の読み方、より高度な集合をやっていた。

 なぜ20点以上も平均点が上がったか。
それは今学期やった授業内容で説明がつくと思う。
・繰り上がりの足し算(4ケタ)
・繰り下がり引き算(3ケタ)
・繰り上がり掛け算(3ケタ)
・分数・分数の差し残・引き算(分母統一)

 四則演算しか指導していないのだ。
 逆に言えば、四則演算(特に繰り上がり・下がり)が身についていないということだった。これは、赴任してからすぐに「ケタ」の概念がないことが原因とわかっていたし、九九を暗記していないことも原因だということもわかっていた。ただ、効果的に「ケタ」を理解してもらう指導法をみつけるのに赴任後2学期間もかかってしまった。

 そして1学期にケタを2週間かけて、ペットボトルのフタを使って、じっくり指導した。
・白いフタ10個=赤いフタ1個
・白いフタはPlace ValueがOne's
・赤いフタはPlace ValueがTen's


当時繰り上がり足し算をしても一桁の欄に2つの数字が入っていることはざらだった。
例:
   3 2 5
+     9 7 
----------

                                                                                        3|11|12

っていう具合に。しかし、1楽器でこれが改善された。

 また、1学期の「ケタ」→繰り上がり足し算→2学期の繰り下がり引き算・繰り上がり掛け算とうまく「できること」がリンクできている。

 そして、今学期の期末テストではほとんどの生徒の四則演算の正答率が上がっている。(正確な数字はとっていないが、採点をした感じでは70%は超えている。)

 しかしつまづいた事もいくつかあった。これから課題となるのは分数と掛け算だろう。
分数について未だに教え方が見えてこない。「2分の1と3分の1どっちが大きい?」と聞いても、3分の1と答えてしまう。紙をつかったり水を使ったりしみたが、うまくいかない。

 掛け算に関してウガンダの指導では九九を暗記をさせない。いや、むしろノートの裏に九九が全部載っていて、子供たちは見ちゃうよね。だからもう一度、暗記をさせないといけない。なぜならテストにそのチャートはないから。3楽器は3桁の割り算があるので掛け算の暗記は必須なのだ。
この2つの課題をクリアしないと、「できること」のリンクがとけてしまう。そうなると、元の木阿弥。ここはふんばりどころだ。

 また、全6教科中、5教科で平均点があがっているものの、唯一英語が下がっているのが気になる。これは担当の先生に言っておかなきゃいけない。

 体感として、「なんとか身になりつつあるな」といったところ。
ん~やることが多い。が楽しみになってきた。

2012/08/06

夢の国の現実


以前からブログで紹介しているが、うちは部屋が狭いのもかかわらず、多くのかたが訪れる。

他の隊員(授業を見学にきてもらっているが、私自身も参考になることがあるし、嬉しい限りだ)
ウガンダ人(特にシャン太はいつでも、ここは彼女の家になりつつある)
にわとり
ねずみ
コオロギ
ゴキブリ
クモ
へび


などなど。コウモリとカベチョロ(イモリ)は他の隊員どうよう一緒にすんでいるので、カウントしない。そしてこのなかで、一番私が嫌いな訪問者。ミッキーである。

他のどの訪問者よりも足音をたて部屋を物色する。(因みに最近蜘蛛の足音、コオロギの足音など虫の足音までわかるようになってきた)。ミッキーの狙いはバナナなどの果物か、コオロギなどの虫。
虫を狙うという意味ではカベチョロと生存競争をしているのだが、私という主がミッキーを敵視しているため、彼らはすぐに追い出される。

そして先週面白いことが起こった。

部屋でPCを使って夜中作業をしていると、ミッキーの足音がした。目を向けるとミッキーが堂々と立っている。「ハロー。ボク、ミッキーだよ!」とちょっと裏返った声で挑発してくる。「おまえ、くるなよ~」と話しかけながら私はホウキを手にして、この現実の4畳間から追い出そうとタイムングを伺っていた。夢の国はこの部屋の外にあるぞ、と。ところが彼はどういうわけが、「あれれ~、ボクの夢の国はどこだっけー」といいながら転がっていた1.5Lのペットボトルの中へ迷い込んでしまった。

そんなもんだから、ペットボトルをホウキで立たせて、フタしめちゃった。

そのままでは、うるさくて眠れないので、外へ放置。次の日の朝にはみまかられていらっしゃった。
これで、しばらくミッキーもミニーもうちにはこないはず。夢の国はウガンダにはないのです。
囚われのミッキー

2012/08/02

個の問題意識と最後の砦。もう帰る。任期短縮。


私の配属先は今学期(5月末)からスタッフが大幅に増えた。私を含めて全14人。

そして、私は大きな打撃を受けた。一番信頼していた先生が配属先をさることになったのだ。
それは以前このブログでも紹介したセレスティンだ。この配属先で一番尊敬していたし、彼となら仕事をやっていて気持ちが良かったし、一緒にしたいと思っていた人物だった。

「ここに3年いる。もう十分だ。」
彼はカンパラで別の仕事をするという。

 彼は教師として意気込みも向上心も持っていて、「授業の質向上ミーティング」の発案者だった。学校後に先生たちが次の日の授業を「あーしたほうがいい」「こーしたほうがわかりやすい」と言いながら準備をする時間。これはかなり画期的なもので、私自身「彼がいるなら」と安心していた部分があった。しかし彼が去った今、これを継続できるか。いや、復活させる気を他のスタッフへ思い起こさせることができるか。授業の質向上という点でポイントになってくるだろう。

 気がつけば配属先で3番目の古株になってしまった。1年と少しで。だ。私の配属先は人の出入り・移動が激しい。日本的企業社会風にいいかえれば「雇用の流動性」だろうか。

 一般的な話だが、雇用の流動性がなさすぎるのは産業を硬質化させるが、ありすぎるのも発展しない。
 それは、いち組織というレイヤーに落とし込んでも同じことが言える。
 ある程度の流動性を確保しつつ、一人ひとりが3年~5年は一つの組織に属することは組織の発展には不可欠な要素だと思われる。それなしには暗黙知は暗黙知として定着しない。形式知(マニュアル)とすることも一つの方法だが、その必要性の理解なしには形骸化するのがオチだ

 だから私はセレスティンが起こした「授業の質向上ミーティング」を他のスタッフに強要しないし、プレゼントもしない。その必要性を認識するようにファシリテイトするのが私の仕事だと考えている。

 そしてこのスタッフの大幅増員と過多な流動性は私にひとつの問題意識をもたらしてくれた。

配属先「組織」に何かを残そうとしても残らないのではないか?
という仮定だ。なぜならヒトが流動的すぎるから。

 サステナビリティとかよくわからないものを重要視するこの業界で、協力隊員としてサステナビリティを担保しようとすると「マニュアル作成」や「システム構築」というところに収まる。しかし先ほどの必要性の認識なしにそれは形骸化への一途をたどることになる。そうやって残されたものが、壊れたまま放置さる井戸や病院の中でホコリをかぶっている医療機器なのだろう。もちろんウガンダ人自身が必要性を認識することができたならば(加えてヒトの固定化が可能な組織ならば)マニュアルとシステムは大きな力を発揮しサステナブルに発展していくことが可能だろう。

 ウガンダ人が気づかないもの(必要性)を外部者としてプレゼントしていくことが私の考える協力隊員の仕事だとおもう。しかし同時に彼らが壊れ井戸を直そうとしないのは、必要ないからだとおもう。もし本当に必要なら自分たちで直しているはずだろう。ここにこそ隊員としての能力やアイディアを注ぎ込んでいく。

ではいち隊員として「組織」に何かを残すことができないならば、どうするか。
シンプルに「個」に残るものを提供していけばいい。つまり、黙知を。

 そして、その暗黙知を具体的にするきっかけがあった。

「カイト、ちょっと見てくれよ」と同僚が見せてくれたある計画書だ。

プロジェクトタイトルはPoverty Reduction Project。具体的には養蜂を50の農家へトレーニングすることでその農家の収入を向上させ貧困を削減させるというもの。

 15ページぐらいある大作だった。前半の5ページはうちの配属先の歴史とかだった。(こんなのいらないから!!!)イマイチ何がしたいのか見えてこない。数字がそこにないのだ。50の農家にトレーニングを行ってどれくらいの収入増を期待するのか。どの程度の農家が収入向上するのか。など具体性に欠けるものだった。そしてナゼうちのNGOがそれを行うのか。いまいち伝わってこない。

私は、
現在の月収が○○shsでこれを養蜂トレーニングによってハチミツを生産させて月収を○○%向上させる。5農家でもいいから具体性を持たせたほうがわかりやすいんじゃない?
とアドバイスした。

 このセレスティンが去ったことと、お世辞にもドナーを納得させることのできない計画書を読んだことで2年間の中心となることをやっと手に入れた。

 今活動の中心はこれで、ここでできる最後のことだと思う。(もし、ある時点で必要ないと言われれば任地変更)

計画書の書き方とニーズ調査の方法のトレーニングだ。

 説得力のある(ドナーがつく)計画書を書く必要性を認識させ、それを書くための考え方(暗黙知)を伝える。さらに、それを書くための根幹(本当に必要なニーズ)を拾い上げる技術(調査手法)を伝え、スタッフの問題意識をマクロからミクロへ移行させる。(スタッフ自身も村人なので外側としてコミュニティをみることが難しいのだと思う。)

 個の問題意識を持つことができた人間はどんな組織でも生き残っていこくとができるだろう。

そして、きっと気づいてくれるはずだ。
ローカルNGOワーカーとして不可欠な3つの能力に。
・コミュニティを見る能力
・ドナーを獲得する計画書を書く・スペシフィックに考える能力
・ファイナンシャル能力

これが私の最後の大仕事。

というか、この程度のことしか気づくことのできないのが今の私でその程度の能力しかもっていないということなのだが、ウガンダに来て改めて無能さを確認した。

2012/04/26

パワーオブミュージック


わけもわからずに、体が震え、鳥肌が立ち、涙がでる。
感動するってそういうことだと思っている。

ウガンダの音楽は2ビートでリズムはどんな曲でも一緒。正直いうとレゲエを聴かない私としては、ジョゼ・カメレオンも、ベベ・ケンゾーもボビー・ワインも好んで聴かない。

だけど、世界にはもっといろんな音があって、楽器があって、音楽があるんだぜ!

それを伝えたくてMusic Caravanを昨年9月に立ち上げた。音楽隊員を中心に小学校教諭隊員や青少年活動隊員が集まり、音楽の楽しさやさまざまな形態を伝えようというもの。活動場所は小学校から村のど真ん中までどこでも。なぜなら音楽はどこでも、だれでも、だれとでもできるから。

3月末に行ったアガリ・アワム小学校は音楽隊員でMusic Caravan発起人の小堀女史の任地。
とてもきれいな学校で会場準備に少々の遅れはあったものの準備万端。この日は全部で3ステージ。全校を3つにわけ、低学年からステージに招いて披露。

ステージではリコーダーやバイオリンの演奏など普段耳にすることのない音を聞いてもらったり、世界にひとつだけの花(手話付き)、さんぽ、日本民謡など日本語の歌紹介。

民謡なんかはウガンダ伝統の羊の皮を張ったドラムでリズムを取りながらひょっとこやオカメさんの面をした隊員が踊って子供を楽しませる。時にはそのお面にびっくりして泣いてしまうウガンダの子供たち。

今回私はオカメさんだったので面白おかしく、泣かせてやろうと意気揚々と登場!したのだが、子供はきょとん・・・
さ、さすがシティボーイズあんどガールズ。そんなものではびびりません。

ちなみにデジカメで写真をとっても「デジカメぐらいウチにあるし~」と珍しがらない・・・それに、全員靴はいてるしね・・・ウチの学校は60%ぐらいは素足。これは靴をもっていないわけじゃなくてもったいないからはかないだけ。家の裏に住む3歳ぐらいの子供は僕をみると鬼をみたように泣く。もちろん私は普段お面はつけてない。

最後のステージでは高学年ということもあって世界地図を広げて「ウガンダはどこだ!?」「日本はどこだ!?」と軽いクイズ。大抵の子供はウガンダの場所を知らない。無論日本の位置も。世界地図が売っていないからだ。国内地図は路上で売っているのに。かつて麟太郎や龍馬が日本の小ささを知り世界の大きさを知って好奇心と向上心を刺激されたようにこの国に世界地図があれば変わるものは大きくあると思うのだが・・・

さて、ニジェールあたりをウガンダだと勘違いしていた子供たちとワイワイ言いながらステージはサプライズが。小堀女史の生徒たちがピアニカを演奏してくれた。曲目は「ふるさと」。ただただ、帰りたくなった。そしてクライマックスのソーラン節へと向かう。これは、テッパン中のテッパン、アップテンポと見た目の派手さで盛り上がる。


大トリが終わりモモをピクピクさせながら最後の挨拶を済ませるわれわれ。
と、ここでさらにサプライズ。
小堀女史がおもむろにキーボードの前で「みんな練習したよね?最後だから楽しんで歌おう!」と何かを弾きだした。イントロを聞いただけでは何の曲かちょっとわからない。そうするうちに子供たちが詩をつむぎだす。
There comes a time....when we head a certain call.
When the world must come together as one.

曲が進めば進むほど私は涙をこらえきれなくなっていた。
We are the ones who make a brighter day
So let's start giving...

みんなで歌った後に、女子生徒から質問がとんできた。

「なんで、ないているの?」

隊員それぞれいろいろと言葉にしては見たものの、うまく答えられない。



その答えは、彼らが大きくなって世界に飛び出したときに自身で見つけてほしいと心から願った。

2012/01/11

新年の楽しみと新年の課題

色々書きたいことがたまってます。
まずは、新年のイベントから。

うちの孤児院に通ってくる子供たちは全員が全員孤児というわけではありません。
3分の1ぐらいが孤児で、エイズ遺児だったり、両親がなくなり家族や親戚に引き取られた子供たちです。
残りの子供たちも認定を受けた学校へ何かしらの理由(そのほとんどが金銭面)で通えなくなった子供たちです。

日本の一大イベントが1月1日だとすると、ウガンダでの一大イベントは12月25日とイースター(移動祝日)。キリスト今日の祝日です。その日は家で育てた鶏やヤギなどの家畜をさばき、ご馳走を食べる日。

昨年のイースターでは私は鶏肉をご馳走になりました。

残念ながらクリスマスは任国外旅行でウガンダにおらず未経験。

神父の挨拶
「あまりお金のないうちの子供たちはご馳走もなかなか食べられない」ということでスタッフが子供たちを呼んで、クリスマス・忘年・新年会をまとめてすることになりました。

まずはちょっと硬い新年のあいさつから。
神父を呼んで子供たちに教育を受ける意味と大切さを説いてもらいます。

その後、お楽しみタイム。ウガンダミュージックをバンバンかけて、子供たちは踊るオドル。
そのリズム感はもはや遺伝子としか説明できません。教室がまるでクラブ。

オドル踊る

そしてお待ちかね、ご馳走。
お母さんたちの炊き出し





メニューは米(ウガンダではもっとも高級な主食)、マトケ。
スープは牛肉。
つけあわせはキャベツ。
私もこれをいただきました。これが御節です。

その後さらにクラブ。
当初の予定ではレクリエーションを考えてあったのですが、子供たちが楽しんでいたので中止、クラブを続行。


そして5時ぐらいに解散。








いつもよりオシャレ
私も踊ってみた。でもかなわない。


 結果的に子供たちが大いに楽しんでくれたので私をはじめ、ダイレクターやその奥さん(彼女もスタッフの一人)そしてヘッドマスター(校長先生のようなひと)も喜んでいました。

ただ、残念なのが大人の方。

上記以外のスタッフが来なかったことです。

あと3人いるのですが、彼らは家族で新年の行事をするのでこれないとのこと。

ダイレクターもがっかりしていましたが、12月のスタッフミーティングで「1月1日にする」と全員で決めていました。私はその時「本当に全員これるのか」そして「子供たちがそんな大事な日にこれるのか」と問うたのですが、全員が全員「自分はこれる。子供もこれるはずだ」と言っていました。

自分たちで決めたことを実行できない。多くの課題の原因はココに集約され、「参加型開発」という世界の国際協力機関が掲げる旗印の最大の欠点がココに体現されているのだと感じています。



2011/11/24

ウガンダの先入観。それは日本人みんな空手ができると信じて疑っていない。

先週、Mityana(ミティヤナ)県Ssekanyonyi(セカニョニ)で日本文化紹介イベントが行われた。私は他の隊員たちと音楽隊を結成。
普段、生の音楽に触れることの少ない小学校の子供たちにいろんな種類の音楽に触れてもらおうと、ア・カペラやリコーダー演奏などをした。

イベント全体の詳細はリンク先を見てもらえるといいと思う。

なので、今エントリーの主人公は空手を披露した同期隊員のキムニイことチムリ

貸切タクシー(マタツ)で2時間ほどして開催地の学校に到着。


サングラスをかけたチムリ登場に、子供たちビビりまくり逃げる。














イベント開催の挨拶、ブース準備もそこそこにチムリが道着を着ておもむろにストレッチ。

そして型を見せ始める。

バッ!バッ!!とこぶしを振る音に子供たちが吸いよせられる。

あっという間に数人が弟子入り。

その光景は、まさにカラテキッド

子供に真剣指導するチムリはまるでノリユキ・パット・モリタ

子供たちは「師匠!」といって彼のそばから離れなかった。

そしてお待たせ、演舞の時間。

全校生徒の前で型と板割りを疲労するチムリ。

ガチでやる気。

ところが板が割れなかったんだな、これが・・・

正拳突きを1度、2度、3度・・・

なんとかポロっと板が割れた。

一発で割れずスンゴイ悔しかったのか、チムリは中途半端に割れた板をヒザでバキ!っとやってた。

いい感じに師匠してたのに、面目次第もなかったのでした。
その後、子供が小さく割れた板をさらに割ろうとこぶしを立てていたので、あわてて止めたのは言うまでもない(笑)


ミヤギさんと、ダニエル

2011/10/18

ウガンダ的日本人

少々、愚痴気味な書き方をさせてもらう。

異国での生活は、全ての事象に「なぜ」と問い続けることと、積極的な情報収集に対してのモチベーションが下がってくる6ヶ月目以降の生活ではそれらをいかに保ち続けるか、いかに呼び覚まさせるかが大事になってくるだろう。

だが、いくら「なぜ」と問うても理解のできないことはある。

先週のある日、夜明け前から雨が降っていた。
やんでも、またすぐに振り出すという具合だ。

ウチの学校は子供が全員で集まって雨をしのげる場所など無い。
いや、ウガンダの学校全部に当てはまることかもしれないが。

なので朝の朝礼は雨がやんだすきをみて行われた。
朝礼はいつも8時からだが、今日は9時ごろになった。
それでも朝礼中に雨は降ってくる。

遅刻してくる子供なんて毎日10人ぐらいいて、体罰をうける。
内容はその日によって変わるが、今日は「雨の中ずっと立っておく」というものだった。

朝礼はいつもの1時間遅れ。
天候によっての予定変更はこの国では当たり前だし、仕方の無いことだと思う。

だが、その罰と他の先生の行為にボクは本気で腹を立てた。

朝礼中の先生は屋根のあるところに立って朝礼をながめる。
朝礼を終わらせると、遅刻してきた子供に雨の中立っているよう指示をする。

普段「子供の健康が~」とか「教育が~」とえらそうに正論をぶつけてくるくせに、そういうことを平気でする。それでいて、自分は教育者づらをする。

それが「ウガンダの教育方法だ」といってしまえば、それで終わりなのだが、それでは子供の健全な教育はできないとボクは思う。

大人が手本になるべきであるはずだ。
そいういう大人の行為を見て子供はどう思うのだろうか

今の大人は自分が子供だったとき、大人のそういう行為を見てなんとも思わなかったのだろうか

この学期は3学期で最終学期。この学期まではウガンダのやり方を学ぼうと思い、意図的に批判的な意見をすることを控え、忠実に彼らのやり方に従っていた。
「日本」とのやり方の違いを知らないまま何を言っても、受け入れられないだろうと思っていたからだ。
しかし、その「日本」がボクの中からそぎ落とされた今では、いいこと悪いことを判断することが感覚的にできるようになってきたと思えてきた。「ウガンダ的日本人」になりつつある。



だから、そろそろ、ブッコんでいってもいいですか?

2011/08/16

きわどい遊び


突然ですがクイズです。エリキはシャン太に何をしているのでしょう?答えは最後に。

さて、今回は体罰についてです。体罰は日本でも私が中学生(10余年前)の時ですら議論があったぐらいですし、今もあるのでしょう。


ウガンダでの体罰は日本のそれとは少々違うので紹介します。

一番の特徴は細い棒を使ってぶつこと。ムチ(cane)を先生たちはヒュンヒュンならして
子供をぶちます。ウチの孤児院では子供を寝そべらせ太ももからお尻あたりをぶちます。
子供の反応は本気で痛がるときとへらへらしているときとcase by case。
ぶたれる理由はさまざま
・授業態度が悪い
・授業中しゃべっている
・課題をしようとしない
・忘れ物をした
など比較的しかたないものから

・服装の乱れ(服が汚い)
・手が汚い(洗っていない)
・態度が悪い
など先生側の気分でどうにでもなるような理不尽なものまで

ムチ以外の罰は
ニールダウン(ひざまずくこと)してレンガを持たされる。
腕をのばした腕立て伏せの状態でしばらく維持。体制が崩れるとcaneでぶたれるなど、端から見ると滑稽にも見えてしまいます。

私は体罰については全面否定をしません。
必要なときはあると思います。それは、その子が他人の身に危険を及ぼした時と重度のウソをついたとき。そしてその方法は平手打ち。幸いまだ私はまだ手をあげていません。

牛飼いが棒で牛をたたくように、子供をたたくのを見ていると、人間扱いしていないように私には写ります。

クラスのコントロールをすること、生徒の成績が悪いことなどはやはり教師の責任で子供はクラスを乱して当たり前、勉強したくなくて当たり前ですのでそれをうまくやるのが教師の仕事であり力の見せ所のように思います。

ムチをやめさせることは不可能でしょう。。。
学期初めのワークショップで他校の先生が「caneしたらいかんばい」と言っていたにもかかわらず
2週間後には先生みんなたたいていましたから。頭では駄目だとわかっていても。

悪ガキばっかり。言うこときかない。自分の力の無さを棚上げして(いやそもそもの教師像が私のそれと違う気がします。「ムチを打つ先生がいい先生」というように)子供に体罰という形で責任をとらせる。ムチを使わずにクラスをコントロールし子供をひきつけることのできる先生を目の当たりにすれば
変わるのかもしれませんが。そういう人材はここの周辺にはいないようです。

さらに、体罰の余波が・・・
学校には先生たちの子供がウロチョロしています。全部で4人。
そのうち大人のすることを何でもマネしだす年齢の子がシャン太とエリキ。

ある日ある先生が30人のクラス全員をぶっているのを2人が見て、私のところに来ました
棒を持って。
そして、ボクに棒を持たせ「カイトー、ぶってくれん~」とばかりそのばに寝そべるではありませんか(笑)
一応ぶつフリはしましたが、もはや体罰そのものが子供にかかれば遊びになってしまうことの皮肉に哀しみと諦めを覚えました・・・


しょーもな・・・

2011/08/08

癒しと子供が思い出させてくれるもの

今回は最近のボクの癒しちゃんを紹介します。
同僚BT(仮名)の子シャン太(仮名)と同じく同僚リリー(仮名)の子エリキ。

シャン太は女の子。推定2歳。まだ、あまりしゃべれません。でも、シャン太の目を見ると何が言いたいのかすぐにわかってしまいます。以心伝心というやつです。
喜怒哀楽を無垢に表現する彼女の行動一つ一つがたまらなくかわいい(笑)

エリキは男の子。推定3歳。私によくペットボトルのキャップに入れた土を持ってきて「Ancle Aito, Kuwata」といってよこしてくれる。(彼は僕のことをアイトと呼ぶ)
そしていつも頭の先から砂だらけで白くなってる(笑)肌が黒いから余計に砂埃まみれ加減が際立ってしまう・・・
そんなエリキは甘えん坊。コケては泣き、自分で立ち上がろうとしない(笑)
その点シャン太の方が大人。女の子だからかな。

二人に「高い高い」をよくしていたら、楽しさが伝わったのか最近はボクの手を引いて、ちょっと高くなっているところまで連れて行って
「高い高い」をおねだりする。一日に何回もすると疲れるのだが、心地のいいつかれだ。
シャン太をみてると、大人になるにつれ喜怒哀楽の境界線があいまいになってくるんだと教えてくれる。
「イヤ」を含んだ「ハイ」とか哀を含んだ喜びとか。
シャン太とエリキと触れてると、自分の子供時代の感覚とかをよく思い出す。
昔のことを思い出して、子供ながらの感覚を呼び覚ましたり。
あの時なりたくてなりたくてしかがたなかった大人に今なっている。そしてそのことに感謝している。

そして、シャン太と接していて自分が親になったときのことを空想する。
どんな親になりたいとかって。子供をどんな風に育てたいとかって。
子どもほしい(笑)

最後にシャン太の嫌いなことを一つ。
それはベイジング。お姉さんのシャビーラ(仮名)に学校が終わった後に体を洗ってもらうのだが、それがイヤでイヤでたまらないらしく。いつも泣いてる。そして桶の中で立つ尽くし、石鹸でつるつるした桶の中でバランスを崩しそうになっても必死で直立不動を保とうとするところもポイント。