Ennyanja Nalubaale- ビクトリア湖

2011/04/15

マケレレの洗礼

前回のエントリーのその後・・・

「ボクはついている」って話。

スラムを突っ切りマケレレ大学へ。
マケレレ大学はタンザニア初代大統領ニエレレやウガンダ初代大統領オボテなど東アフリカのリーダーを多数育て上げた東アフリカNO1の伝統校だ。

現在でもケニアのナイロビ大学、タンザニアのダル・エス・サラーム大学とともに東アフリカTOP3を誇っている。

ちなみに、現ウガンダ大統領ムセベニがダル・エス・サラームを卒業したことはウガンダ人のネタになっているようだ。

ともかく、我々はその伝統校のキャンパスを申し訳なさ程度にの裏門から入った。
ウガンダ人3人JOCV3人のパーティーだ。

ウガンダの交差点に信号はなく大体ランドアバウト。 フランスの凱旋門がラウンドアバウトだ。

大学の中にもランドアバウトがあって、キャンパスを進むうち我々はラウンドアバウトを横断した。
その際、車が接近していた。
こちらは車優先の社会。人が走らなきゃ轢かれる。
斜めに道路を横断していた私は直角に横断するように進路を変更。
大きな木の木陰に入るようにした。

歩道に上がって3歩ほど歩いただろうか、

「バタバタ!」と雨が肩を強く打つ音が聞こえた。

確かに雨は昼ごろ降っていた。しかしそのときは晴れていたし日差しが強く蒸し暑かった。

鳥のフンだった。
ただの鳥じゃない。アフリカハゲコウ。羽を広げると1mを超えるでかい鳥だ。
カンパラにはいっぱいいる。でかいカラスみたいなもんだ。

肩がけしたボディーバックから肩にかけ、緑とも白ともつかない色の液体がのっていた。
そして、手に持っていたレインウェアにも。

私の第一声
「S○it」
これは2つの意味が含まれている。
ウガンダ人の友達の第一声
「Sorry」
その後笑い。

「He welcomes you to Makerere」

いやな気持ちもあった。
だけども、ウガンダ人に受け入れられたという気持ちが大きくなんだかうれしくなった。
フンを落とされてうれしがっているのだ。「おいしい」と。

今考えるとなんとも自分がこっけいに見える。
だけど、これは体を張った異文化適応方法なのだ!
と言い訳をしたい。

ボクはウガンダで洗礼を受けた。

だから、うんがついている。
2つの意味で、うんがついている。

2011/04/05

世界の縮図

ただいま、現地訓練に励んでいます。

トータルで5日間のルガンダの授業。
JICAウガンダオフィスでの各種ブリーフィング。

これから、
NERICAの栽培のお手伝い。
Phenix社訪問などがあります。

ここまでで、強烈に印象に残った事を1つ。

昨日、JOCVとマケレレ大学で日本語を勉強している学生と2人1組のバディを組んで、Kampla市内を回るという、City Walkがありました。

このトレーニングでは
現地民とのコミュニケーションをマンツーマンですること。
Kampla市内の地理に慣れること。(どこに何があるのかなど)
ルガンダを勉強すること。
などが目的として挙げられるでしょう。

私のパートナーはテソ族というウガンダ東北部出身でルガンダはしゃべることができなかったようです。彼とは英語で会話をしていました。しかし、だからこそ彼自身こと、ウガンダのこと、カンパラのことをたくさん教えてもらいました。

ウガンダ人の英語になれるのには少し時間が必要です。これからの課題に一つです。

そして、せっかくなのでマケレレ大学を案内してもらうことにしました。
大学へは歩いて行ったのですが、道中スラムを突っ切って大学へ行きました。

スラムは大学から1ブロックしか離れていません。
その中へは絶対に一人や日本人だけではいけないところ。
貴重な体験でした。


スクラップ車をばらして売っていると思われる、車のヘッドライト、シャフト、ボルト。
ほんとに売れるのか疑問ですが。
赤赤としたトマト。緑緑としたマトケ。
地面の下を流れない下水道。
し尿、食物、体臭、全てが混ざり合った臭い。
こちらを外国人を見る痛い視線。
会話、髪を切るバリカンの音、大音量で流す音楽。
ぼろぼろの服を着た子供。服を着ていない子供。そして、どうみても子供たちは栄養不足の体をしていました。

5才くらいの子供がボクの手を取ってくれました。
うれしかったです。
それと同時に手を洗いたくなりました。
これが、事実です。

そう思うことが悪いとは思いません。きれいごとを並べる気もありません。


その日の午後行った本屋では、おめかしをした小学校入学前の少女がお父さんと流暢な英語を使って絵本を選んでいました。

日本は格差社会ですが、ウガンダでは天と地の差です。

マケレレ大学のことは次回。

2011/03/30

アフリカ大陸へ

2011年3月24日成田空港からウガンダへむけ飛び立ちました。

フライトスケジュールは
午後10時に成田からドバイ、アジス・アベバを経由してエンテベ空港へ到着しました。

総移動時間は23時間。

時差としては6時間しか離れていないのにアメリカに行くよりも遠い国です。


ウガンダに入り4日が過ぎましが、ウガンダの第一印象を少し。

飛行機から見えるウガンダは赤と緑にあふれていました。
エンテベに向かう前によったアジス・アババでは茶色の大地がずっと続くサバンナでした。
ウガンダは赤土の上に緑があふれ海のようなレイク・ビクトリアが広がっていました。
「アフリカ」とイメージするような平らな大地が広がっているわけでなく、緑色の丘陵地帯がつづいていました。

エンテベから車で1時間強のウガンダの首都カンパラの街はというと思った以上に発展しています。
高いビルも、スーパーもあります。

車社会です。排ガスも埃もすごく目がすぐにかすんでしまいます。

しかし、スーパーや主な経済はインドや南ア、など外国資本企業を主に見かけます。
自力で経済をまわしているという印象はありません。

これから、カンパラでの訓練が2週間ありますが、任地派遣まえまでには、少なくとも向こう半年の目標を決めたいと思います。

ちなみに、ウガンダ料理(マトケやポショ)はまだ食べていません(笑)

2011/03/23

訓練修了から派遣まで

22年4次隊は2011年3月11日に修了式を迎えました。
65日間の訓練を終え、それぞれの地元へいったん帰り派遣までのつかの間の休息と各自治体への表敬訪問、準備に取り掛かります。

ウガンダの場合出発は24日。13日間の時間がありました。
しかし、3.11/14:46
M9.0というとてつもない大地震が東北を襲いました。その影響で実質10日間の休暇となってしまいました。(地震については次回エントリーで。)

さて、この期間にしないといけないことは
表敬訪問
身辺整理
荷物の準備
です。

表敬訪問は希望すればどこでも行っていいわけですが、私は生まれ育った福岡県庁と地元の町役場へ行きました。 
10日では足りないぐらいの人に会い、話をし、しばしの別れを惜しみました。
荷物も必要なものが想像以上に多く、欲張ってしまいます。

この期間に、一度立ち止まりいろんなことをかみ締めて覚悟をつくってから出発したいのですが、そうする時間もあまりせん。
気持ちを落ち着かせる時間が必要です。
心に余裕がひつようです。

最近、考えたことは心の余裕は、勝手にあるものではなく、自分で作ることができるのではないのかと。
全ては、自分しだい。状況に流されない冷静さと懐の深さをつくっていけたらと思います。
残り1日を有意義に過ごしたいと思います。

2011/03/13

訓練所での生活

基本的な訓練所での生活は

午前
7時~      朝の集い
7時20分~   朝食
8時45分~  授業3コマ
11時40分~  昼食
午後
1時00分~  授業2コマ
3時10分~  講座

このスケジュールで週6日月~土曜まで。

講座は国際協力のことや任地での安全・健康管理のことなど必要になるであろう情報の共有がなされます。
毎日講座があるのですが、NGOで一年インターンをさせてもらったせいか、ビギナーレベルのことは大体知っているし、勉強している。それでもコレは!と思う講義も半分ぐらいあるので楽しい毎日を過ごしています。


この訓練は
・現地生活のシュミレーション
・協力隊同期の仲間作り
・国際協力の基礎知識の習得
・最低レベルの言語習得
以上をメインの目的としていると私は考えます。


勉強ができるという点もそうですが、何より価値観を共有できる人間がそこらじゅうにいること。
みんなと、仲間と話すのが楽しくて毎日ふもとのだけ温泉へ飲みにいってます。

国際協力のこと
協力隊のこと
JICAのこと
どーでもいい馬鹿な話
などなど、ここまで「同じだ」といえる人間が100人以上同じ場所で同じ時間をすごすことがすごく大切で大切で、絶対にかけがえの無い2ヶ月になるだろうと思っています。

この2ヶ月のすごし方でウガンダでのがんばり方やがんばれる量が決まってくるような気もします。
「NTC(Nihonmatsu Training Center)での仲間が世界各地で同じかべにぶつかっている」
と感じれれば、任地での苦労など苦労と感じない気がします。

今が現地活動の心の基盤を作る時期だと思って、がんばります。