Ennyanja Nalubaale- ビクトリア湖

2012/12/02

キリマンジャロ登山 ~6th Day~


4600m   Barafu Hut   00:00~
5756m   Stella Point   6:15
5895m   Uhuru Peak    6:45
4600m   Barafu Hut    9:45
         Rest
4600m   Barafu Hut   14:00~
3137m   Mweka Camp   ~16:30 

歩行距離:ピークまで4.5km
     Barafu Hut~Mweka Camp 10.5km

一つの挑戦権を手に入れた。等しく受け入れそして拒む神の愛をボクがアタックの結果いかんに問わずその結果を受け入れることができるのかどうか、自分自身への挑戦権を。

17時に炭水化物たっぷりの早めの夕食をとった。早く寝ようとするのだが、みんな興奮しているのか、床につこうとしない。というか、本を読んだいた。ヘミングウェイの短編「キリマンジャロの雪」。それまで4日もあったのに読み終えていなかったのだ。山でする遊びといえば読書→キリで読む本→「キリマンジャロの雪」という安易かつミーハーなことを考えていたのはボク、光成氏、コナンの三人。別に示し合わせたわけでもなかった。「読み終えていないのに頂上には立てない」まるで宿題を授業が始まる直前に必死にやっている、中高生のよだった。

2時間ほど寝袋に入った。が、寒さと風で一睡もできなかった。寝袋からはい出し、身につけられる限りの装備を身に付け、ブーツをはき、ゲイターをつける。それだけでも、息苦しい。長くも貴重な一日がスタートした。

あたりは闇が包んでいた。それでも星たちが所狭しと夜空を占めていた。1等星も4等星も地上で見るよりも見分けがつかなかった。1等星が4等星に優しくよりそっているのか、それも4等星が1等星に近づこうとしているのか。そして、ルートの先を見上げると、先行するパーティのヘッドライトの明かりがジグザグの道を作りながら、星空へと溶け込んでいっていた。星が人によりそおうとしているのか、人が星に近づきたくて上を目指しているのか。4日目にアウグストが言っていた "Middle of nowhere""Another Earth" というよくわからなそうで伝わってくる頂上の景色を渇望した。

5000mを超えても、心身ともに余裕があり、ジョーダンや古今東西何かをしながら登る。三成氏は相変わらずピンピン。コナンとユリちゃんは黙々と歩を進める。5300mを超えたあたりから数歩進んで深呼吸に立ち止まる。数歩進んで深呼吸に立ち止まる。それを繰り返した。そでもフラフラする。眠い。そして急げなくなった。急ぐと、高山病の症状の吐き気や頭痛が襲ってきた。そして、寒かった。とにかく寒かった。鼻水は凍り、上唇に張り付いた。そんな時、一番心配されたコナンが遅れだした。「ごめん、先に言ってて」3人は「わかった。ゆっくりね」とは言えても「追いついてこい」とは言えない。コナンにアウグストがついて、ボクら3人とサブガイドのムリとマイクが先へ進んだ。

ギリギリのところで息をはき出しながら保つ。吐き気も頭痛もそんなにひどいものではなかったし、頭痛はほとんどなかった。

が、ボクの番が回ってきた。

突然の吐き気に嗚咽を漏らす。サブガイドのムリがボクの肩を支えてくれる。明るくなってわかったことだが、このあたりは一回転げ出すと、どこまでも転げていきそうな場所。吐いてみたものの、何も出なかった。あたりまえだ。アタックをかけて6時間弱、何も食べていないのだから。光成さんは休憩時スニッカーズにうまそうにかぶりついていたが・・・

ボク「ごめん、先に行ってて」
光成・ゆりちゃん「わかった」

2人はゆっくりではあっても、確実にボクより速い歩でサブガイドのマイクとともに登っていった。
ムリと2人で小休止。いつの間にか、空はしらみだしていた。進む先には短くなったヘットライトの道が星たちと交わり境界をなくしていた。しかし、さっきよりも星々との距離は近く、ライトの道は短かった。進んできた道には、バターをぬったようなのっぺりとした雲が大雲海をつくり、氷河がいつの間にか真横にあった。しらみだしていたのは空ではなく、大雲海であり、山を覆う氷河だった。星と山と雪と雲が創り出す世界に涙した。言葉にできない美しさへの感動と一人では登頂できなかっただろうという感謝。不思議とその涙のつぶは凍らずに流れた。こらえようとすると呼吸が大きくなり、体が楽になる。ゾーンへと足をふみ入れた。

火口外縁へ到着。そこがStella Pointだ。ここからUhuru Peakまでは緩やかな登り。難所は超えた。先に到着していた光成さんとユリちゃんと合流。が、Stella Pointについたとたん風の強さが数倍に。岩かげにはいっても5分もいられなかった。「ここで、コナンをまつのか」と不安になりかけたときコナン到着。この時点は6時30分。この日の日の出は6時45分で、このStella Pointで日の出を待つ予定だったが、アウグストの指示でUhuru Peakを目指すことになった。


このころまでには、あたりはオレンジが主張をしはじめ、岩を朱色に、氷河を赤く染め上げていた。そして、太陽光に照らされた、大雲海は急に温度を上げ、信じられないくらいの速さで立体感とコントラストを作り出した。アウグストが形容した"Middle of nowhere"や"Another Earh"がよくわかる。今でもあの世界を形容する言葉をボクは持たない。頂上Uhuru Peakの記憶はあまりない。ガイドたちに「おめでとう」と祝福され、「ありがとう」と返して写真を撮ったぐらいだ。

ただただ、大きな世界に圧倒されただけだった。それは「自分が小さい」と思わせる類のものではなく、「ただ世界がある」それだけだったのだと今では思う。

分かり合えない人は必ずいるとキリマンジャロで感じた。誰かがそうだった、というわけでなく。ボクら4人のパーティも同じ時に同じ行程で、同じように体力を消耗して頂上へ立った。同じ経験をしても感じることは全く違うのだ。ただ大雲海を見ながらそう思った。
たからこそ、ボクらは人に対して優しさをもって接していかなければと思う。それは「なれあい」や「傷つけない」というある種の惰性のような態度ではなくやさしさをもって。

 神は愛をもって人々の挑戦を受け入れ、さらに大きな愛をもってそれを拒むのだから。




2012/11/27

キリマンジャロ登山 4th day&5th day 


4th day
3860m Baranco Camp 10:00
4000m Karanga Camp 13:22
総歩行距離5km

5th day
4000m Karanga Camp  9:45~
4600m Barafu Hut      ~13:00
総補強距離4km



バランコウォールが朝の光の影のとともに立ちはだかった。4日目のスタートはこの崖を這い上がるところからスタートした。バランコウォールを見上げると足場の狭いルートをクライマーとポーターたちが尾根の上まで長い列を作っていた。この場所ではトレッキングポールはお休み。手を使いながらよじ登った。ここで滑落して死んだクライマーもいるし、ポーターもいる。アタック同様に難所だ。

そんなところでもポーターたちは頭に大荷物を抱えて軽々と登っていった。ガイドにコック、ポーターと3種類のシゴトをキリマンジャロの山の男たちは請け負っているのだが、4日目にもなると、「どうやら、序列のようなものがあるらしい」とわかってきた。アウグストに聞いてみた。


 「私はポーターを2年、コック2年、サブガイド2年、それからメインガイドになった。ガイドになるにはポーターとサブガイドは必ず経験しないといけない。クライマーの命を預かる仕事だから。

そう語る彼の落ち着いた姿に、責務を果たす使命感のようなすこし薄いぐらい影のようなものと、数々のクライマーをピークまで導いた自信からにじみ出た光のようなものが見えかくれしていた。
 
 ポーターたちは上限20kgの荷物をもつ。昔はもっと重かったらしい。ボクらクライマーの荷物をもつポーター。料理用のガスボンベを頭にのせるポーター。キャンプ用のダイニングテーブルが突き出た土のう袋を頭にのせるポーター。新米ポーターほどガスボンベやテーブルなどの運びにくいものを運んでいたように思う。なぜ、こんなきつい仕事を選んだのか。それは彼らが神の家の近くで生まれ育ったからだろう。アウグストに「それだけ経験と体力があったら、クライマーとして高くて難しい山に挑戦したくならないの?」と聞いた。

「ん~。私はキリマンジャロが好きだから。

Porter
その答えがすべての解答なのだと思う。

メインガイドになるには足掛け6年。サブガイドのひとり、ムリは3年でサブガイドになったらしい。彼の場合、サミットポーター、頂上のクレーター内でキャンプをするクライマーのサポートをしていたらしい。大荷物を抱えて5900mへ登っていく。ちょっと別次元の話だ。とはいえ、すべてのメインガイド志望のポーターがメインガイドになれるわけではない。言葉の壁を超えなければならない。ご存知のとおりタンザニアではスワヒリが公用語。ウガンダのように(学校で習うのかもしれないが)英語が日常的に使われていない。ムリはちょっと英語が苦手だったようだ。バランコウォールを軽々と超えていくポーターたちには言葉という別の壁が立ちはだかっている
ポーター。ルートは様々

一日伸ばした日程のため、ボクらはカランガキャンプという尾根の上で一泊。5日目にアタック前の最終キャンプ地、バラフハットへ高度を上げた。バラフハットはカランガキャンプ同様尾根の上にある。スペースは広くない。しかし平原の向こう側に形が印象的なマウェンズ峰が肩に雲をかけて待っていてくれた。到着したのが昼過ぎ。日程を伸ばさなければ、夕方に到着その夜アタック。もし一般的な日程だったら、かなりきついアタックになっていただろうとおもう。ボクらどうように上を目指すクライマーが集い、アタックを終えたクライマーたちが疲れと充実の入り混じった顔でバラフへと降りてくる。9時間後、いよいよボクらもピークアタックする。




2012/11/18

キリマンジャロ登山~3rd Day~


3800m Shira Camp    8:50~
4630m Lava Tower    12:46
3860m Baranco Camp  15:26

総歩行距離15km

 キボ峰の向こう側から現れた太陽に向かってボクらは出発した。前日の短い行程のおかげで全員の足取りは軽い。高度順応のこの日は、稜線をいくつか超え4600mのラバタワーまで登り、またいくつか超えながら3800mまで降りていく。キボ峰を常に左手に見ながらその横を抜けていく。

 高度順応は高山登山になくてならないプロセス。物事には一見、無駄とも思える行程を必要とすることがる。しかも登山の場合その無駄さ加減が顕著だ。つまり結果(登)は同じでもプロセスの難しさや違いによってクライマーの能力や技術を差別化するということだ。その「結果」や「達成感」はそのルートを選んだ本人にしかわからない。だけど、この過程や達成感は共有できるものだと信じていた。そしてそれは、多くの事柄においても同様だと信じていた。この時までは。

 ボクらのパーティはヘザー&湿原(Heather&Moorland)エリアを超えてアルパインデザート(alpine desert)に入っていった。植物が極端に少なくなり、砂漠の灰色と雲海と雪の白が世界を覆っていた。気温は寒く、風も強い。ソフトウェルジャケットをアウターにフリースをインナーレイヤーに着込む。グローブにニットキャップ。日差しは強く紫外線が容赦なく降りかかった。日焼けどめは必須携行品だ。4000mを超えると、いやがおうにも呼吸を意識して登らなければならなくなった。深く、大きく。ガイドが作るペースはじれったいほど遅かった。

 この日はバランコキャンプ泊。進む先にはバランコウォールと呼ばれる巨大な壁が立ちはだかる。その左手にはキボ峰が間近にせまっていた。アウグスト曰く「このサイトが一番きれいなんだ」。

 夕飯はいつも7時頃。メニューはスープと炭水化物、メインディッシュ、付け合せの野菜。これがうまい。山でこのレベルの食事ができるというのは本当にしあわせだった。夕飯後はいつもチャイを飲みながらトランプやウノをしながらすごす。活動のことから何気ないことまで、気心の知れた人たちと話をする。今思えば、登頂以外に、それが醍醐味の一つだった。そしてその人間関係があってこその全員登頂だったと思う。



テントの外にでると、星ぼしが所せましと夜空をうめ、こぼれたミルクが大きな河を作っていた。

2012/11/15

キリマンジャロ登山~2nd Day~

3000m Machame Hut  8:45~
3800m Shiera Camp  ~13:40


総歩行距離9km


 ボクは悲しかった。達成をしたからだ。いつのころからか、やりたいことの一つだったキリマンジャロ登山。挑戦するという高揚感も、期待感もなく、ただ何か虚無感というか喪失感を感じていた。
 うっそうと生い茂る森を進みながら、この喪失感はなんだろうと考えてみた。
 一つは抱いてきた「やりたいこと」が消えるという喪失感。それを、他のメンバーに伝えると、「やりたいことができるというだけでも感謝すべきものだよ~、誰でもできるわけじゃないんだから。」そのとおりだ。もう一つの虚無感。無力感だ。それは僕が何かのスキルを手に入れたり、そのために努力をしたきたわけではないからだ。キリマンジャロ登山は勝ち取ったものではないのだ。ただ、やりたいことを自分の責任においてできる年齢になったというだけだった。「アフリカ最高峰に登りたい」と思い描いた頃から何も変わっていない。ただ無為に年を重ねただけかもしれないという時間に対する喪失感でもあった。
 でも世の中のこと大半がそんなものかもしれない。タバコや酒は精神的に子供でも20歳になればコンビニで買うことができる。

 と、そんなひねくれたものの見方をしてみたものの、ある帰結点にたどり着く。

こだわりすぎ。

 こだわることで、道すがら端に咲く花を見落としたくはなかった。それは景色だったり、周りの動向、自分の感情だったりもした。だけど、山にいるときぐらいそれをなくしてみるのもありじゃないか。でないと、それこそ道端の花を見落としてしまう。

 前置きが長くなったが、2日目は午前中だけの行程。
 数字上楽に見えるが、足にくる行程。初日に比べ、斜度も高く、すべて登り。加えて、酸素が薄くなる。これからもっと薄くなるとはいえ、「薄くなり始め」は筋肉が驚く。

 登り始めの一本道が大渋滞。周りはポーター、クライマー、ポーターだ。8月はハイシーズン。登りやすい時期の上に、欧米では夏休みだ。10人以上の大所帯のパーティも入れば、父と息子の2人パーティなど様々。その横をポーターたちが軽々と登ってゆく。

 ボクは静かに、厳かに頂上を目指したかったのだが、喧騒があたりを包み込む。自分の登りたいスタイルではないと、心が乱れる。楽しくない。しかし山という場所がそうさせる力を持っているのだろう、発想の転換をしてみる。昨日マチャメゲートをくぐった者はみな家族なのだ。一緒に神の家へ足を踏み入れたお客なのだ。

 そう思えたことで急に別パーティとの仲間意識が芽生えてくる。

 辺りには、ガスが出てきた。景色は見えない。光が乱反射する中である白人女性が声をかけてきた。

「調子どう?楽しそうだね。昨日、キャンプサイトでムービーとってたでしょ?」

 ボクら4人は記録用として動画を撮影していた。内容はユーモアに富んだもの。クライマーが周りにいる中で撮影するにはちょっと赤面してしまうぐらいの。

「ありがとう。君もキリマンジャロ楽しんで。」と快くかえした。

 山は「いる」こと、"being"が楽しさの源だとはいうが、その状況を楽しめてこそ、「いれる」ことを感謝できる。

 ガスが晴れ、景色を臨めるようになってきた。いつの間にか一行は熱帯雨林から、木が少なくなるヘザー&湿原(Heather&Moorland)エリアへ差し掛かっていた。木は低くなり、ゴツゴツした岩が目についてきた。見上げると、キボ峰がボクらを待ち受けていた。見下ろすと、雲の上に出ていた。遠くにはタンザニア第2位の山メールがその頂をあらわにしていた。

 そんな時、ユリちゃんが高山病予防薬の副作用でダウン。山に入る前に冗談半分本気半分で「リタイヤしたらせつないよねー。」「先行くよ。とも先行って。とも言いづらいよねー」なんて言ってたら、その気まずさが現実味を帯びてボクと光成とコナンを襲う。そして、困惑も。
 RPGで例えると、勇者・盗賊・格闘家は健在なのに白魔道士がやられた、なんとも敵出くわしたくない状態。ガイドたちが彼女の様子を見ているため、することがない。でも不安。仕方がないから、カメラに手が伸びる。いっぱい写真を撮った。

雲海の向こうに見えるのがメールー山
 幸い彼女は30分ほどひとしきり吐くと、なんとか歩ける状態まで回復。歩をすすめることができた。この日は昼までの行程だったので、余裕を持ってこの日の行程を消化した。


 午後は遊ぶ時間。

 散歩をしたり読書をしたり。そして、ここShiera Campからシーラ峰が臨める。キリマンジャロには3つの峰がある。
 最も高い中央のキボ。2番目に高く(タンザニア側から見て)東側に位置するマウェンズ峰。そして西側にあり、最も古く、火山活動によって最初に隆起したシーラ峰だ。

 太陽はキボ峰を赤く染め上げ、クライマー、ポーター、ガイド、人種、立場、経験、すべてを無関係に山にいるすべての人間に何らかの感慨を起こさせ、シーラ峰の向こう側へと姿を消した。

シーラ峰に沈む夕日
 まあ夕飯時、すっかり回復したユリちゃんから男3人は「薄情者」と言われてしまうのだが・・・

2012/11/10

キリマンジャロ登山 ~1st Day~


1900m Machame Gate  11:00
2400m Lunch         14:30-15:10
3000m Machame Hut   17:30

総歩行距離18km

Kilimanjaro is a snow-covered mountain 19,710 feet high, and is said to be the highest mountain in Africa.  Its western summit is called the Masai "Ngaje Ngai," the House of God.  Close to the western summit there is the dried and frozen carcass of a leopard.  No one has explained what the leopard was seeking at that altitude.

~The Snows of Kilimanjaro~ Elnest Hemingwey 

 マチャメゲートで入山手続きも早々に、歩き出す。「おじゃまします」。初めて来る友人の家で靴を脱いでそろえるように一歩目踏み出す。そこにはBlue Monkeyがボクらを出迎えてくれた。「神の家へようこそ」と。ボクらは静かな森へと足を踏み入れた。覚悟と畏怖とを抱きながら。


 頭上の木々は山を覆い隠す。雲は空を覆い隠す。だからというわけではないが、景色を楽しむというよりはガイドたちとのコミュニケーションに注力していた。彼らとの信頼関係なしには山は楽しめない。アウグストと登山靴が同じだった。それをきっかけに山道具の話で盛り上がった。彼らはボクらに「どの山に登ったことあるの?」と山での経験値を聞いてくる。こちらの力量を探っている。それが心地いい。



そうこうしているうちに、ボクらは昼食のポイントについた。その辺一帯でクライマーたちが食事をしていた。弁当を広げるパーティ、ポーターが用意してくれた椅子に座りくつろぐパーティ。そして何やら一番賑わっているポーター集団が目に付いた。彼らは歌いながらケマリのようなもので遊んでいる。「うわ~テンション高いなー。こんなポーターのところは大変だろうな・・・静かに登りたし」なんて思っていた。

 ボクらの食事をする場所はイスにテーブル、テーブルクロスまである見たところ一番立派なもの。「うわ~豪華」山での贅沢は「どれだけ余計な手間をかけ下界と同様なことができるか」だとボクは思っている。間違いなく贅沢だ。用意されていたお茶で体を温めながら食事を待つ。キリマンジャロではコックも付く。彼が一切の食事を用意してくれる。そうすると食事はあの一番にぎやかなポーター集団から運ばれてきた。昼食はフライドポテトと魚のフライだった。これがうまい。

 これから彼らのサポートを受けながら5000mを超えていく。

 物事とは、いつも思い通りにはいかないものだ。

 それから、2時間ほど登った、3000mのマチャメハットにこの日はテントを張った。




2012/11/05

キリマンジャロ登山~移動篇~


 加速する機窓の右手にビクトリア湖が見える。世界第3位の淡水湖だ。起点の町モシへと飛び立つ。フライト中、左手にはメルーとキリマンジャロがただ静かにそこにあった。ご存知のとおりキリマンジャロはアフリカ最高峰。メルー山はタンザニア第2位の峰だ。

 ボクは高ぶり、抑えられないものを感じていた。意気込むボクをよそにプロペラは回転を落としていった。

 キリマンジャロ国際空港に着陸すると、どこまでも続く地平が広がっていた。これが憧れ続けていたアフリカの大地。乾燥し、平らな大地が広がる場所。残念ながらウガンダではお目にかかったことが無い光景だ。ウガンダは赤道直下にもかかわらず緑豊かな丘陵地帯だからだ。大学時代の研究対象がタンザニアで、当時から憧れをもっていた。
 ゲートを抜けると旅行会社のスタッフが迎えてくれた。手にはボクの名のカード。「Kaito Ofuchix 4」。なんかカッコイイ。と思ったら「×4」ね。

そう、ボクらのパーティは4人。
ボク
光成(偽名)
コナン(偽名)
ユリ(偽名)

 ユリちゃんは山小屋でのバイト経験がある看護師。最も心強いメンバー。
 コナンは体は子供でも頭脳は大人でその知恵を活かして・・・ではなく、某国立大学野球部員でインテリマッチョ。体力はパーティ中No1だが筋量から一番高山病の心配があるメンバー。
 光成氏はメンバーの中、一番ひ弱(なはず)なのだが、高山病にならないというまさかの強みを事前登山のエルゴン(4321m)で見せつけ、メンバーからやっかみがられたダークホース。

 空港からモシタウンへは40分ほどの道のり。青空にキリマンジャロ峰がたたずむ。思ったよりタイラじゃない。google画像検索を今この場でしてもらいたい。ゾウやキリンが大草原でキリマンジャロを背にその生命を謳歌する。そんな絵が出てくるのではないだろうか。ウガンダに帰って知ったことだったが、その絵、実はケニア側から見たキリマンジャロなのだそうだ。
 どこかで見たことのあるキリマンジャロでなかったのは幸運だと思った。写真で見たことのある光景に出会ったならそれはもはや初対面ではないだろう?

 モシタウンで旅行会社へ直行。寝袋やトレッキングポールなどをレンタルする。そしてガイドと対面・ブリーフィングをする。ガイドの名前はアウグスト。物腰の柔らかい物静かな男だ。

 ブリーフィング後ホテルへ移動。それぞれのパッキングを済ませ移動の疲れをとるように床につく。ということはなく、前夜祭が始まる。「ウィスキールートだよ?」「ウィスキー買ってかなくてどーするよ?」と光成氏の発案だ。こういう時一番はしゃぐ最年長。

彼の口癖「人生で一回だけだよ?」。

そしてその夜の彼だ。これから5000mを越えようとする時にこんなことで大丈夫なのだろうか?



長く苦しくも、かけがえのない1週間が始まった。

2012/10/26

キリマンジャロ登山 ~準備篇~


 子供の頃から山登りは好きだった。大人になってアフリカ最高峰は5大陸の中でも一番登りやすいと知った。そのチャンスがきた。せっかくとなりの国ウガンダに行くのだから行かないわけ行かない。と同期のウガンダ隊員を赴任前の訓練中から口説いていた。

 キリ登山にあたって、の準備から7日目の下山までここに残しておこうと思う。キリマンジャロ登山を考えている人の参考になればと思う。

 まず、何より必要なのが旅行会社。コンタクトをとってこちらの人数や希望日程・ルートなどを相談する。旅行会社はゴマンとあるのでネットで希望のところを探すのがいいだろう。ちなみに私は以前登ったウガンダ隊の人に教えてもらったところにした。旅行会社によってガイド・ポーターの人数や装備のレンタルの有無などが違うのでよくよく選ぶのがよいだろう。ちなみにガイド無しで登っている欧米人を見かけたので、それも可能だと思う。

ルートはマチャメ(Machame)ルート。キリマンジャロで2番目にポピュラーなルートで最もポピュラーなのがマラングルート。マラングは5日で登って帰って来れるが、マチャメは最短6日。高度順応日が含まれるからだ。また、マチャメは通称ウィスキールートと呼ばれている。なぜならウィスキーを飲まないとやってられないほど寒いからだ。
山好きのメンバーが揃った?われらが登山隊。「キリマンジャロを楽しみたい!」と日程を1日多く取ることにした。

全行程は以下のとおり
1st day Machame Gate(1900m)-Machame Hut(3000m)
2nd day Machame Hut(3000m)-Shira Hut(3800m)
3rd day Shira Hut(3800m)-Baranco Hut(3860m) 高度順応日
4th day Baranco Hut(3880m)-Kranga Hut(3950m)
5th day Karanga Hut(3950m)-Barafu Hut(4560m)
6th day Barafu Hut(4560m)-Mweka Hut(3100m)アッタク日
7th day Mweka Hut(3100m)-Mweka Gate(1740m)

一般的な日程だと上記の日程の4th day と5th day が一緒になってBaranco HutからBarafuまで一気に上がることになる。

次に装備。私が使った旅行会社はレンタル可能だったので寝袋、テント、などの大型装備はレンタル、それ以外はほぼ手持ちした。
レンタルしたものも含めて装備は以下のとおり。

ー行動着ー
ニットキャップ
ネックウォーマー
フェイスサンガード
Tシャツ×4 
保温性ロンT×2
ソフトシェルジャケット×1
ストームジャケット×1
レインウェア上下×1
ナイロンパンツ(ロング)×1
サポートタイツ×1
保温レギンス×1
靴下(薄手)× 4 枚
靴下(厚手)×2枚


ーキャンプサイト着ー
チャコサンダル
フリース×1
マイクロパフジャケット×1
ロン T ×1
ナイロンパンツ( 7 分丈)×1
スウェット下×1
レギンス×1

ーギアー
登山靴
サングラス
時計
ハイドレーションパック
バックパック 30L
バックパック 50L
ベルト×1
タオル×1
ゲイター×1
ナイフ
ヘッドライト
インナー・アウターグローブ×各1
トレッキングポール

ー携行食・その他ー
粉ポカリ×4
ファーストエイドキット
 鎮痛剤8錠
 テーピング
 日焼けどめ
 タイラップ
 ダクトテープ
 毛抜き
 ポイズンリムーバー
 ハサミ
 バンドエイド
 ライター
 ガーゼ
 綿棒

ーカメラ類ー
ニコンF3
 18mmレンズ
 50mmレンズ
 モノクロフィルム×4

ソニーNEX5
 18-55mmズームレンズ
 13mmパンケーキ
 予備バッテリー×4
掃除用品

これにプラスして下山後の服が必要。
この中で使わなかったものはなかった。もしあるのであれば、テルモスがあるとよい。特にアッタク時は寒い上に、酸素が薄いために消化器の機能が低下する。なので、お腹がはって少し苦しくなる。しかも、食欲がなくなる。アタックからキャンプサイトに戻ってくる10時間で、食べたのはM&M一粒。水とポカリは入ったが液体以外口が食物を受け付けなかった。暖かい、甘い飲み物があると楽が出来たかもしれない。

荷物の量はちょうど良かったと思う。ただ、ポーターへ荷物を預ける際にダッフルバックをレンタルした。なので50Lのバックパックは置いていった。もし自前のバックパックに全部入れてポーターへ預けるなら70L以上のパックがいると思う。

お金に関しては旅行会社・日程によって違うので注意が必要だが私の場合$1200+チップだった。チップはこれまた旅行会社に事前に確認が必要だが、私はパーティ4人で登山者ひとりあたり$300弱かかった。

さて、いよいよ出発だ。

次エントリから旅日記風におとどけします。

2012/10/21

マラリア


になった。ちょっと古く7月の話なのだが・・・アフリカでは最もポピュラーな病気。人気があるからといって、あなどってよいものではなく悪化すれば死んだり、脳に後遺症がのこったりする怖い病気。

マラリア。せっかくなので経緯と治療方法をまとめてみたいと思います。

 ある日の夜に寒気がした。体温は平熱。
この日は風邪かと思い鎮痛剤を服用。

 2日目~3日目の午後まで、軽い頭痛。体温は37度程度。
この期間は鎮痛剤とパブロンを服用。3日目はあまりの治らなさに「風邪じゃないかも」とうっすら・・・
ただ、この時はアメーバウィルスなどの病気もありえると想定していた・・・

 3日目夜。頭痛がひどくなる。体温は38.5度。
マラリアチェックをすると、うっすらとポジティブの線が・・・
悪寒がひどくガタガタ震える。多分この時は40度を超えていたと思われる。
鎮痛剤を服用すると今度は熱くて仕方がない。布団をはぐ。寒くなる。布団をかぶる。熱くなる。この繰り返し。寝れない。

 
 4日目朝。頭痛はひどい。体温は39.2度。
この時点でマラリア確定ランプが点灯。チェックをすると見事当確。
しかし、意識ははっきりしているし、体も頭痛以外は問題ない。ピンピンしてる。「100m走に出て」といわれれば出れるぐらい。
といってもマラリア。病院へいって血液検査を受けたあと、支払いを済ませている最中に急に苦しくなる。立ってられない。吐き気が襲う。(嗚咽をもらしたのはこの時の1回のみ)
そしてすぐにベットに横になる。寒くて仕方がないが、看護師によれば脱水症状を起こしているので薬を飲んでも吐き出すだろうからまずは脱水症状をなんとかしましょう」と。点滴を3本(1.5L)入れる。

 私の場合のマラリアの治療方法は以下のようなものだった。
コアテム(マラリア原虫を殺す薬)を服用。8時間後コアテムを服用。
1回目のコアテム服用後、吐き気どめ、メフロキン2錠、鎮痛剤2錠を服用。
この間ずっと点滴が手の甲に刺さっている。
最後の方は暑くて汗をかくぐらい。

 トータルで病院に5時間強いて、体内に入れた点滴は3L。顔がむくんでむくんで。
病院から帰ってからは頭痛もなく。体温も平熱だった。

5日目以降は1日に1回4錠コアテムを朝に服用。これが9日目まで続いた。
7日目と8日目は頭痛があって歩くのも実はつらかったが、熱はなくすごした。

9日目以降はドキシサイクリン(抗生物質)という薬に移行。これが10日間つづいた。


 自業自得です。副作用の強い予防薬を飲むのをやめた自分が悪い。まあ、でも家族が死んだとか、自分がHIVに感染したとか。そんな夢を毎週みて精神的にやられるのも嫌だったし。ただでさえストレスのたまる生活環境なので。

おかげで献血できない人間になってしまいました。ちょっと献血すきだったんですけど。

仕方がないので、再発防止の対策をとるだけです。

ご心配をおかけしたみなさま、どうもすみませんでした。そして気にかけてくれたみなさん、ありがとうございます。

と、3ヶ月前にのこしていました。それ以降マラリアにはなっていません。

2012/08/11

先生冥利

 先週で2学期が終わった。


1学期に引き続き、メインで担当したのはP3(小学校2年生に相当)の算数。

期末試験の結果は平均点22点アップ!!
1学期の26点から48点までになった。

これは、私のおかげ

いやいや、子供たちが頑張ったのが一番

ここで、その要因を紹介する。

 まず、1学期が平均26点しか取れなかった外的な理由として以下のようなことが挙げられる。
・私の英語に子供たちが慣れていなかった
・同時に私も子供たちの反応、できる子、不得意な子がわからなかった
・私の授業スタイル等、手探りだった

 そして、今学期点数がのびた外的理由は
・私のスタイルが成熟し始めた
・そのスタイルを生徒が理解しはじめた
・生徒の反応がわかるようになってきた
 わからなくても、Yesというのがこっちの子供だが、本当にYesなのか、なんとなくYesなのか、NoのYesなのかがわかってきた。

 内的要因、つまり授業内容を見てみると、1学期は以下の単元のみしか授業でしなかった。
・ケタ、位
・3桁の繰り上がり足し算
・九九

 もちろん、その他に集合などの単元があったのだが、ルガンダで説明することが中心になる単元は同僚にやってもらって、計算中心の単元だけを回してもらっていた。そして、それは2学期も継続して割り振りをした。因みに2学期は時計の読み方、より高度な集合をやっていた。

 なぜ20点以上も平均点が上がったか。
それは今学期やった授業内容で説明がつくと思う。
・繰り上がりの足し算(4ケタ)
・繰り下がり引き算(3ケタ)
・繰り上がり掛け算(3ケタ)
・分数・分数の差し残・引き算(分母統一)

 四則演算しか指導していないのだ。
 逆に言えば、四則演算(特に繰り上がり・下がり)が身についていないということだった。これは、赴任してからすぐに「ケタ」の概念がないことが原因とわかっていたし、九九を暗記していないことも原因だということもわかっていた。ただ、効果的に「ケタ」を理解してもらう指導法をみつけるのに赴任後2学期間もかかってしまった。

 そして1学期にケタを2週間かけて、ペットボトルのフタを使って、じっくり指導した。
・白いフタ10個=赤いフタ1個
・白いフタはPlace ValueがOne's
・赤いフタはPlace ValueがTen's


当時繰り上がり足し算をしても一桁の欄に2つの数字が入っていることはざらだった。
例:
   3 2 5
+     9 7 
----------

                                                                                        3|11|12

っていう具合に。しかし、1楽器でこれが改善された。

 また、1学期の「ケタ」→繰り上がり足し算→2学期の繰り下がり引き算・繰り上がり掛け算とうまく「できること」がリンクできている。

 そして、今学期の期末テストではほとんどの生徒の四則演算の正答率が上がっている。(正確な数字はとっていないが、採点をした感じでは70%は超えている。)

 しかしつまづいた事もいくつかあった。これから課題となるのは分数と掛け算だろう。
分数について未だに教え方が見えてこない。「2分の1と3分の1どっちが大きい?」と聞いても、3分の1と答えてしまう。紙をつかったり水を使ったりしみたが、うまくいかない。

 掛け算に関してウガンダの指導では九九を暗記をさせない。いや、むしろノートの裏に九九が全部載っていて、子供たちは見ちゃうよね。だからもう一度、暗記をさせないといけない。なぜならテストにそのチャートはないから。3楽器は3桁の割り算があるので掛け算の暗記は必須なのだ。
この2つの課題をクリアしないと、「できること」のリンクがとけてしまう。そうなると、元の木阿弥。ここはふんばりどころだ。

 また、全6教科中、5教科で平均点があがっているものの、唯一英語が下がっているのが気になる。これは担当の先生に言っておかなきゃいけない。

 体感として、「なんとか身になりつつあるな」といったところ。
ん~やることが多い。が楽しみになってきた。