Ennyanja Nalubaale- ビクトリア湖

2013/10/05

協力隊員を振り返って(ナルバーレ廃刊)

協力隊員としての活動が終わって6ヶ月がすぎた。

「協力隊員」という肩書きから綺麗さっぱりと離れるために冷静に振り返りたい。今回は2本柱の一つNGOスタッフとしての活動を振り返ることにする。 





目次
1赴任当初の不必要性の認識
2スタッフ定着率から得た活動のヒント
3スタッフトレーニング
4トレーニングの期待効果と実施
5リサーチの不実行
6帰国後半年に振り返って


赴任当初の不必要性の認識
 赴任当初HIV/AIDS予防啓発活動ワークショップの手伝いと称してつれ回してもらった。次第に「ついて回る」だけでは自分が満足できなくなってくる。ついてくだけでは学びはないし、時間の無駄だと思いはじめた。なによりそのワークショップはうまく回っているのだ。手出しするところはないように見えた。海外の大手NGOの支援を受けて行われているワークショップで金銭的支援だけでなくプログラムそのものがパッケージされたものとして送られてきている点も理由としてあると後々理解した。

 配属NGOの外側で活動をして村人との接点に切望していたボクだったが、HIV/AIDS予防啓発活動以外のところで自らプログラムを立ち上げて行うまではできなかった。
 理由は2つ。まず時間的制約。生徒の面倒を見ながら村人と関わっていくことは難しかった。そして二つ目は(こちらが主な理由)代表の許可を得られなかったこと。組織の人間である以上その組織の名をしょって活動することになる。ボク(協力隊員として)は「村人と直接関わる」ことを最優先にしていて、NGOのターゲットグループや活動分野と関わる必要はないと思っていた。NGOの幅や機会・ポテンシャルを広げるという意味でも「外部者が内部者になる」ことのメリットはあるんじゃないか。ただ、その「NGOのターゲットグループや分野と関係のないところで活動する」というところに代表はひっかかりを感じたらしく、話し合いは平行線をたどった。最後まで。




スタッフ定着率から得た活動のヒント

赴任して1年と3ヶ月が過ぎた頃、セレスティン(最も信頼していた同僚)がうちのNGOを離れていった出来事を機に「個人の持つ暗黙知やスキルがその組織に定着・システム化する前に(形式知になる前に)、その個人は組織を離れてしまう」のではないかという仮定にいたった。

だったら、組織ではなく、個人に何か残る形でアプローチするほうが合理的だ。ボクは村人と直接関わることをあきらめ同僚の能力を上げることを考えた。

「何を?」の前に、ボクのNGOの問題点を上げてみる。
・継続したドナーを得ることができていない。プログラムベースの単発ドネーションばかり(ウガンダのローカルNGOはどこもこんなかんじだが)
・スケジュールどおりに物事が進まない(これはウガンダどこでもいっしょ)
・印象だけで物事を語る同僚たち
・専門性の欠如。「HIVのことを知っている」と言っても専門家ほどの知識を持っていない。にもかかわらずそのプロジェクトを進めないと行けないジレンマをもった同僚たち

そして、これから先のNGO業界の展望をウガンダに照らし合わせて考察してみる。現在の南米のトレンドがこの傾向にあるようだ。
・ウガンダへの援助総額額は減る
・減少したドネーションはより大きなインパクトを作ることのできる組織へと注がれる(その組織は受取額を増やしていく)
・プロジェクトベースの援助ではなく年数などの期間によってパートナーシップが築かれる。
・援助分野でみると意思決定プロセスへの参加(マイノリティの政治参加など)。社会経済権利や経済成長分野へ資金が投入される(BOPビジネスなどがこれにあたる)
・ある程度の経済成長を遂げるとNGOは「貧困」問題から「不公平」問題解決へとシフトしていく。

そんなトレンドがウガンダへ訪れた時に、ウチのNGOは生き残っていくことができるか。HIV/AIDSという専門分野は間違っていない。しかし専門性が必要であり。今後の生存率は極めて低い。ウチのNGOを弾力のある組織にするに何が必要か。
・ドナーを獲得する能力
          ロジカルに物事を考えられる力
          説得力のある計画書の書き方
・村の現状を引き受けて、ニーズを引き出す力
          リサーチ手法と問題点の洗い出し方法

スタッフトレーニング



<計画書トレーニング>
     コンテンツから説得させるための文章の構造などを紹介。さらにロジカルで説得力のある計画書には数字が必要です。じゃあ数     
     字の採ってき方(そして先進国NGOが一番求めているものですよ)を勉強しましょう。

<リサーチトレーニング>
     事実質問で問題の本質をつかみつつ、集めたデータを整理・精査して、計画書に取り入れよう。

トレーニングの期待効果と実施 
 トレーニングが終わるとコネやツテ以外の方法でドネーションを引っ張ってこれる人材になってくれるだろう。また、彼らが何かやろうと思ったときに「何から始めたいいかわからない」状態から「よし、これから始めよう」という状態になっていると予測した。物事を動かす時のファーストステップを手に入れられると。副次的な効果としてさらには自分の住む地域の問題点(問題意識)を得ることができ、NGOワーカーとしての軸を持ってもらえるんじゃないか。と期待した。

 計画書のトレーニングは全5回。グループワークでやってみたり、実際の申請用紙を使ってリアリティをもって考えることができるようにしてみた。「きたい人だけ、来て。強制はしないから。」そう言って始めたトレーニングは13人いるスタッフのウチ5人は確実に来てくれた。そして信頼できるスタッフを2人、手に入れることができた。これが大体去年の7月から12月までにやった活動。計画書のトレーニングが終了した時点で任期が残り3ヶ月で実際にリサーチをするには少々スケジュールは厳しかった。しかしやる気のある同僚もいるしできると思っていた。

リサーチの不実行
 リサーチを行うための準備はすべて終了していたが、結果的にリサーチは行わずに任期を終えることになった。質問票の作成、県庁への許可申請書、予算書の作成、訪問先の村の特定(500農家)。実行できなかった理由も2つある。まず時間。ボク自身に時間はあったが、同僚たちになかった。ウガンダ人の言う「時間がない」である。日本人的には「ある」のだが急がせなかった。急がせなかったのはボクが尻を叩いて急がせたところで学びにはならないだろうし、集めたデータの分析まで教える時間があるとは思えなかったから。そして最大の要因またまた代表とのすれちがい。これも理由はNGOの外側で活動する時にストップがかかったのと同じ理由で代表の許可がおりなかった。実は赴任後、半年でリサーチの計画を立てていた。そのときは金銭的理由でNGOが予算を出せないということで動かなかった。今回もおなじく金銭的理由でストップがかかりそうだったので、すべてボクのポケットマネーで行うと公言してからは金銭的トラブルはなくなった。ちょっと笑ってしまうエピソードなんだが、ボクがリサーチをストップさせると決めた時、同僚たちに「準備はすべて整ってる。あとはやるだけだよ。自分たちでやってみるのもアリだよ」と言った。すると熱心に参加してくれた同僚が「でもお金がない」と。

帰国後半年に振り返って
 同僚たちに伝えたかったこと。それは「お金がなくても、できることはあるよ」。全く伝わらなかっただろう。彼ら自身っても難しい立場にいる。というのはNGOの職員であり村人であるから。村人であるがゆえに主観的になりがちで、それがNGOの職員として一歩引かなければならない場面で引くことを許さない。だから彼らの書く申請書は20ページの長さで前半10ページはNGOの歴史や組織について延々と書かれている。もちろん文化背景がそうだからという理由付けもできるが、援助の世界は欧米の文化によって支配されている。それがいいことなのか悪いことなのかボクにはわからない。しかし de factoである。

 代表に関して彼はボクのボトルネックだった。反省点は今では明確だ。ボクと彼との間で何一つのゴールやビジョンが共有されていなかったことだ。例えば高校のサッカー部の部長と副部長がいたとする。部長は県大会ベスト8目標にしていて、一方副部長は優勝をだったとする。この目標の非共有は考え方や行動に差異を産み、相互不理解へとつながっていく。
 ただ、共有しようとしてできたか?それも難しいと今でも思っている。代表は組織の存続を第一に考えていたし当然「お金」を一番に考えていた。もちろんNGOの目指すビジョンを作るために。一方ボクはといえば二言目に「金」という代表と理解し合えないと決つけて「ドネーションを得るために、孤児の生徒たちを利用している」と嫌悪していた。今でもNGOの子供たちがうつったきれいな写真は好きになれない(ボクもブログに載せたりする矛盾をもちながら)。ボクはもっと”きれいな”国際協力の姿を想像していた。つまり代表は現実主義的でボクは理想主義的だったと言い換えることもできる。ここには正しいも悪いもない。「お金がない」という現実を前に「金がなくてもできることはある」と言っても説得力はない。それを実現しようと試みたが2年では短かったし、失敗に終わったといってよい。そして失敗は必然だったともいえる。

 


 「失敗」であった目標点に達することができなかったということで、ゼロではなかった。失敗ゼロではなくしてくれて、今でも前向きにとらえることができているのは同僚のおかげでだ。彼らに感謝してもしきれないくらいだ。生活面でも助けてくれたし、ボクのやることを助けてくれたり助言をくれたりと彼らなしにはさっさと帰国していただろう。今でも連絡を取る元同僚は何人かいて、かけがえのない出会いをもたらしてくれた隊員活動だった。




 失敗を回避するために妥協をしてドネーションを引っ張ってきていたらどうなっただろう?感謝されるだろう。NGOの命ものびるだろう。しかし根本的な解決にはならない。今思うのは「協力隊員ごときが組織や国際協力の根本的な解決はできない」と言うこと。配属先NGOの問題にしろ国際協力全体の課題にしろ、2年で好転できるほど要因は浅いところにない。
 2年間できるかぎり考え、行動し、待った。失敗はしたが得るものは多く、かけがえのない経験をした。経験をしただけでは何も変わらない。これからはこの経験を振り返り考え、国際協力全体の動きや考えと照らし合わせながらよりよいものを模索していく。そうすることでこの2年間の失敗の意味が出てくるの。失敗はただ失敗である。しかしそこから学ぼうとさえすれば、必ず価値あるものになってくれる。




これにて、Nalubaaleは廃刊となります。ここまで読んでいただいた方々本当にありがとうございました。これからも国際協力の模索を続けます。もしご興味がありましたら近々リリースされる新しいブログへ足を運んでいただければと思います。このブログでもアナウンスさせていただきます。2年と半年ありがとうございました。

2013/09/29

タンザニア旅行

隊員の時にしかできない旅行「他国の隊員の任地を巡る旅」



そう思って、タンザニアへ。


ザンジバル



 奴隷貿易時代はその拠点としてさかえ、それよりもはるか昔はエジプトが、マスカット・オマーンが象牙や香辛料を求めて往来した島です。サンジバルの語源は”ザンジ”。ペルシャ語で「黒人」を意味する言葉。ペルシャ語が語源という時点で歴史の長さを感じさせます。そして、東アフリカのスワヒリ文化圏の拠点となった土地でもあり、スワヒリ文化はイスラム文化の影響を色濃く残しています。スワヒリ文化圏は今のソマリアのモガディシュやキスマヨあたりからモザンビーク中部のソファラあたりまでの非常に縦長な文化圏だったとか。しかし反面、内陸へはたかだか30km程度という海岸沿いに集中した文化だったとか。スワヒリの語源は”サワーヒル”。アラビア語の「海岸、河畔」を意味しています。

 その文化圏の中心地だったザンジバル。青い空と碧い海。白い街がある島。海を見るのは1年11ヶ月ぶり。やっぱりほっとします。そしてコーヒー屋さん・カフェがとても多いところにタコの足を揚げたものやココナッツを売り歩いている売り子もいる。南国空気とアラビアの文化とアフリカ風土がごちゃ混ぜになった場所はとても魅力的でした。

さて、ザンジバルでは理学療法士隊員と井戸掘り隊員の活動を見学。
二人とも問題を抱えつつも少しづつ前に進めようとしていました。そして二人のザンジバル文化への適応加減も驚きでした。
何やら打ち合わせ 細かいコミュニケーションが成功の鍵

地下16mでの井戸掘り作業

本土へ向かい、村落隊員と自動車整備隊員の活動を見学。
二人ともスワヒリ語を巧みに使い仕事をしていました。そして二人の仕事に対する真摯な姿勢に尊敬しました。


スワヒリ語で指導しながら一緒に作業

隊員が建設指導をした道。以前はただの獣道だった



ウガンダとは全く違う景色に圧倒されるばかり。この広さはウガンダにはありません。



 タンザニアの行政上の首都ドドマから4時間ほど離れたコンドアの岩絵遺跡群まで足をのばしました。世界遺産の中でも人の訪れは少ない方だと想像できます。だってKiwangala村と大して変わらない村の規模。そしてアクセスの悪さ・・・それでも行ったのは人類発生の地のロマンを感じたいから。



 

 帰国した今振り返ると、他国の隊員活動を拝見することは貴重な体験だったと実感します。「なぜ自分が活動を失敗したのか」「うまくいっている人は何がそうさせているのか」そんなことを客観的に見れた旅でした。国が同じウガンダ隊員の活動を見ることも大きな勉強でしたが、そういった時は「ウガンダの文化・ウガンダ人」側から自分の活動や発言方法などを考えがちになります。しかし、国という共通項(東アフリカは残る)が無くなると「隊員活動の手法や姿勢」という自分たち側から活動を振り返ったり自己評価することができました。「そしてそれはこれから国際協力活動をする時に必ず役にたつと信じています。

2013/09/22

ルワンダ旅行

半年以上前のことなのですが・・・書いて公開していなかったので、遅ればせながら公開させてもらいます。









隣国ルワンダへ行ってきました。

家から陸路で数時間なのですが、飛行機で。飛行機もエンテベからキガリまで40分程度。
「飛んだ」と思ったら「降りだした」飛行時間。
そして機内で出たビールは500ml。
着陸ギリギリになんとか飲み干した次第でした。

さて、首都キガリはとてもキレイ。清掃委員が四六時中掃除をしているよう。
しかもルワンダのすごいところはプラスチックバック(ビニール袋)が一切ないこと。お店は全部紙袋だし、出入国時はプラスチックバックを回収されることも。


そんなキレイなルワンダ。ルワンダというと、90年代の大虐殺が記憶に新しい人も多いのではないでしょうか。映画の「ホテルルワンダ」や「ルワンダの涙」がそうですね。大学生の頃「ホテルルワンダ」を見たときの衝撃は凄まじいものがありました。





実際ジェノサイドミュージアム(虐殺記念館)は首都のほか、各地にあります。滞在日数も短いことから、ボクは首都の記念館のみ足を運びました。
展示物はキレイにまとめられており、被害者の頭蓋骨や衣服の展示、ジェノサイドまでにいたった経緯を説明するパネルなど丁寧な内容。長崎の原爆資料館に近いです。それでも映像や写真が残っており、パンガ(ナタ)で人が人を殺す映像(遠目なので生々しくはあまりない)や見るも無残な死体の写真なども展示してありました。実際白骨やホルマリン付の遺体を残している教会もあるそうです。

ルワンダは数年前に公用語がフランス語から英語へ変更されました。それでも日常的にはもうひとつの公用語であり現地語のキンヤルワンダ(Kinyarwanda)が使用されこれは隣国のウガンダの多数はの言語、ガンダ語やルワンダ国境沿いに住むニャンコレ族が使うルニャンコレ(Lnyankole)とは似ても似つかない別の言葉。バスに乗ったはいいが行き先をコンダクターに伝えられない(笑)そしたら、隣に座っていたルワンダ人女性が流暢な英語で助けてくれたり。ウガンダよりもいい国と思わせられてしまいます。


同期の活動を見にウガンダ国境沿いのニャガタレ(Nyagatare)まで足を伸ばしました。キガリから約3時間。美しい湖と丘がボクを寝かせてくれません。しかも、バスの隣に座ったおじさんが協力隊員の同僚だとか。世界はせまいものです。

ニャガタレの村落隊員は地元の特産品のハチミツに目を付けて、組合と一緒になって質の高いハチミツの生産に成功。彼のすごいところはこれをすぐにお土産にするのではなく、地元の人たちで消費することを1番の目標にしていたこと。普通ならすぐにお土産や海外旅行者むけにつくりたいところですが、飛躍せずに活動している。(現在は帰国)



ウガンダの国境沿いという土地でもあるせいか、村人はガンダ語を知ってたりします。「子供の頃、ウガンダに亡命してたんだよー」とか「ラカイに住んでたんだ」というのを当事者から聞くと急に「亡命」とか「難民」とかっていうコトバが現実の匂いをかもし出してきます。TVや本では絶対出せない匂いです。そんな彼らもボクと久々にガンダ語をしゃべれて嬉しそう。「亡命」というコトバを介して想像するウガンダでの生活は不安が常にあったのかな、なんて想像しますが多分そんなになかったんじゃないだろうかとも想像する。だって「今」を大切にする(しか見れない)アフリカ人だから。

そしてこの地方はウガンダ側の国境に住むニャンコレ族と似た特徴を持っていました。まずはコトバ。ルニャンコレをしゃべれる人がいるよう。そして食文化。この地方では牛は食さないらしく山羊が主に食されているとのこと。ボクのニャンコレ族の同僚も牛は食べないんだとか。さらに仕事。この地方の人々は牛追いをして生活をしているらしいのですが、ウガンダのニャンコレ族もこの特徴を持っています。ウガンダでは「ニャンコレ牛」はブランド化してあり、ニャンコレ族はチーズなどの乳製品を生産しています。国境と民族を考えるとアフリカの歴史の複雑さと奥深さを感じます。

もちろん今現在のルワンダに問題がないわけではないです。キレイな街、静かな国民の影には「他者に民族を聞いてはいけない」法律や昼夜問わずパトロールをする警察。ルワンダ隊員曰く「臭いものには蓋をする」方法で過去の失敗や悲しい事件を忘れようとしています。そして、その危うさも感じました。隠したり見ないようにすることはいい。だけど隠しきれなくなったとき、目を背ききれなくなったときの危うさです。

でも、こうも思うのです。今だに目を背けられずには生きては行けない出来度とだったのだと。部外者が「目を背けずに」なんて口が裂けても言えません。

2013/03/11

Requiem for the moment



I am sitting in a sedan type taxi which take 10 passengers to my village. On my laps, there is a lady's butt. Today, there are 6 passengers, including me, on the back seat. Fortunately, all of us are thin. 

Some times, I feel fear.  I do not fear having a car accident which I would get serious injury. I am afraid of disappearance. Sometimes, I sink into a sens of which I already die long before, I vanished away from this world long before, or came into the  parallel world. 

It is brought by the earthquake of 3.11.2011. I was in Fukushima riding on a bullet train. When the train attempted emergency stop, it had shaken terribly. I thought I die. Strangely, I hadn't afraid of die. I accepted my end. Thus, I can't believe tomorrow when the sense catch me. Some people say "We got to see tomorrow". "We can rebuild it". "We have to overcome the lament" That's true, but I can't just believe those words when the sense catch me. I know it's a fake sense. I alive indeed. Tomorrow will come in reality. 

Nevertheless, sometimes I cannot hold my motivation for live and maturity. This is an unwelcome thought considering the real life because it bring troubles into it. 

I don't know whether I dead or alive. 

One thing I'm sure is that I have to live with this scare sense together till my actual end. That is my doom, which I was there at that time. 

When I am tired, I fall into the sense. 


PCの入ったバックを抱えてタクシーに揺られる。膝の上には別の乗客が座っている。今日は後部座席に6人だ。幸運にもみんな細い。

時々怖くなる。何を?事故。10人もセダンに乗って事故したらアバラぐらいは簡単に折れるだろう。でも事故よりも怖いものがある。
生きている感覚がない。

なにか別の平行世界に迷い込んでしまったような錯覚に陥る。

時々なるこの知覚。やはり震災で「死んだ」と受け入れてしまったからなのだと思う。一度シを受け入れた。生きていればこそ、「明日に目を向けて」なんて思うかもしれないが、今日のような知覚の時は明日がないと本気で思ってしまう。だから目標に向かってアレコレをしようというモチベーションにかける。平行世界に来たわけでもないし、明日がこないはずはないのにそう知覚してしまうことは、実生活ではマイナスでしかない。

怖いのだ。

生きているのか、居なくなってしまっているのかわからない。

この恐怖と生きていかねばならぬのだろう。それがあの日、あの場所にいたボクの宿命のようなものなのだろう。

疲れている日ほど、この知覚に襲われることが多い。

2013/01/27

3学期の終わりと先生活動の終わり

12月3日。本当は前の週の木曜日に修了式だったのに、通知表を作るのが間に合わず、同僚が「親たちに月曜日に修了式するように言った。」だって。「なんだよ仕事しろよ!」というツッコミは心の中に収めた。

親御さんたちに電話しまわって延期してもらった修了式当日にせっせと通知表を作っているのだから、「木曜にやってもおなじじゃないか!」というツッコミも心の中にしまって、通知表にはんこ押したりコメント書いたりしました。

私は学期途中の3月に帰国。もう親御さんにお会いする機会もないということで、5分ぐらいのスピーチをさせてもらった。子供たちは頑張って勉強した。褒めてやって欲しいなんて、今考えると偉そうなことを言ったと思う。でも子供にとって親に認められることこそ大切だとも思う。なぜなら、この国では子供の人数は多い。そしてひとりひとりの命の重要性(「重さ」ではない)も軽んじられがちだからだ。

さて、気になる子供たちの成績。私が一年担当したP3の算数の平均点は51点だった。2学期から3点上昇した。3学期の単元内容から下がることを予想していた私は、いい意味で驚いた。

やっぱり四則演算と九九の暗記。これができて初めて「算数」に取り組むことができる。P3全員が九九の暗記をできたわけではなく、9×9まで覚えたのはわずか3人。「日本の小学生はみんな覚えている」と思うかもしれないが、それは九九をリズムで覚えることができるから。

ニニンガシ・ニサンガロク・ニシガハチ・・・と。

英語もしくはルガンダにリズムで覚えるような方法が取れないのが残念だ。それでも「トゥートゥーフォー」とか「シックスシックスサーティシックス」というふうに可能な限りリズムを意識した。

他には分数を今学期は教えた。1/2と1/3では1/3の方が大きいと思っている子供たちの前提を壊して「割合」の概念を掴ませるのに苦労した。そこで使ったのが、卵ケース。日本の小学校だとケーキを使って説明したりするけれど、「ケーキ」なんて見たことのない子供達だ。彼らが手にとったことのある、みたことのあるものでなければ教材になりえない。ウガンダには(日本もそうだっけ?)6個入りのパックと10個入りのパックがあるのだが、6個入パックに丸めた新瓶氏を詰めながら「6個卵が収まるケースに、今5個卵が入ってるよね?」「さぁ、これを分数で表すと?」

5/6

「6個卵が収まるケースに、6個入ってる。これは?」

6/6

「そう。そしてケースがいっぱいになった。これが1。」

6/6=1

といった進め方で、分数の概念に触れてもらう。そして通分に移っていく。通分では5/10=3/6と説明しないと行けない。ここでも卵パックの出番。(ただ、失敗したのが「割合」の概念なのに実際には卵の数が別なこと。ここは課題として残った。)この説明が不十分なところで学期末テストが始まってしまった。何やらHIV/AIDS関連へのドナーとなってもらっているNGOへのアカウンタビリティレポートを作らないといけない+そこのスタッフが訪問するというので、準備やらなにやらで1週間ほど授業がストップするのだから、なんとも本末転倒というか、どっち向いて仕事してるのやら。と思いつつ、お金を持ってなんぼだから仕方ないか。とも思ってみたり。

それでも嬉しい質問をもらった。ウガンダ人の先生では子供たちは絶対にしないだろう質問。
授業はただ受けるものとしてベンチに座っていた彼らから両方向の授業ができていると実感した質問。
クラスで一番できるグループの一人、イスラムが「先生、5/10と3/6。分母の数字が全然違うのに何でイコールなの?」と。

Welcome to the MATHEMATICS world!

緑のシャツがイスラム

2013/01/21

ウガンダのブガンダ王国の氏族性( クランシステム)



ウガンダには40を超える言語があるという。民族も多数派のガンダ族をはじめ、テソ族、カラモジャ族、ニャンコレ族など様々で典型的な多民族国家だ。

私の住む地域はガンダ族(現地語:バガンダ)の住む地域のブガンダ王国の西のはてにあたる。ブガンダ王国には国王(カバカ)がいる。しかし、主権国家としては機能しておらず、ウガンダ国内の一民族の一文化圏として機能している。ちなみに、最近テソ族の長についたのが、アメリカ留学中の若干21歳の女王様だそうだ。ウガンダ国内を旅行すると、民族の違いというか、キャラクターの違いを感じることが多くある。そんなブガンダ王国のクランシステム(氏族制度)について少し調べてみた。そしてブガンダ王国だけでなく、多少の差違はあってもほかの民族にも存在している。

ブガンダ王国には53の氏族(クラン)がある。そしてすべてのガンダ人がどこかのクランに所属している。動物や虫の名前のついたクランがほとんどだが、「キノコ」とか「編み棒」なんて名前のクランもある。

クランシステムは400年前には存在していたと考えられ、当時は現在の王朝とは別のものだったようだ。そして現在の王朝がチントゥ王の出現により立ち上がった。その後、さまざまなクランが王国の外部から持ち込まれたり、王国内部で分離・統合がおこなわれた。

クランは大きく4つに大別することができる。
1.北からきた6氏族(マンバなど)。チントゥ王出現以前から存在したクラン。
2.チントゥ王出現と成立時期を同じとする16の氏族(チマ族など)
3.ブニョロ地域出身のチメラ王によって持ち込まれた11氏族(ガビ族など)
4.その他20の氏族。個別にブガンダ王国へ入り、元のクランからの独立や統合によって形成されていった(エンテ族など)

クランの構造
6つの下部構造があり、下から
・Nyumba いち核家族
・Luggya 祖父の家族も含める
・Mutuba 曽祖父母までの家系図に拡大
・Lunyiriri 
・Ssiga
・Kasolya
 NyumbaとLuggya以降、どこまで拡大していくか調べられなかった。個人的に推量した。

それぞれの階層で意思決定プロセスは存在するが、社会的文化的に意思決定できないイシューについては、仲裁の制度がある。家族で意思決定できないことがらについては祖父母などの血縁が仲裁。それでもダメなら遠い血縁が仲裁。それでもだめなら・・・といったぐあいに、その頂点がカバカということになる。つまり、社会的な決定事項は家族や血縁で決めていきましょうよ、というもの。日本の氏族性(明治以前に限る)も似たようなものだったのではないだろうか。ウガンダでの社会的に重要かつ典型的なイシュー。それは誰を族長にするのかという課題だ。

これは私見だが、仲裁できる人間が近くにいる必要があるので、地域によってマジョリティのクランが存在していたと考えられる。しかし、車やバイクの導入や経済活動が優先、近代化するにつれクランの移動も激しくなったのではなかろうか。この前提にたつならば、今後ブガンダカルチャーの拡大、新クランの設立なんかも、遠い未来のことじゃないように思える。

このクランシステム、面白い特徴がある。

まずは名前。クランによってつけられる名前が決まっている。逆に言えば、名前を聞けばどのクランの人間かすぐにわかるのだ。とはいて、ひとつクランでつけられる名前が限られているので、よくかぶる。そんな時宗教名で区別されることになる。 同じカトゥンバでもフランシス・カトゥンバとサイード・カトゥンバは別人、というふうになるわけだ。例外はあるらしい。親は別のクランの名前を付けることも可能。また、族長の名前は決まっていて、誰が族長になっても決まった名前に変えなければならない。

双子の名前はクラン関係なく決まっている。
兄妹の双子はカト(兄)・ナカト(妹)。
姉弟の双子はバビリエ(姉)・ワサワ(弟)
など

ほかにも、特別な名前があってこれもクランに関係なくつけられる。
ムシシ。意味は地震。地震の最中に生まれた子供はこう名付けられる。
チワヌカ。意味は「落ちる」。突然生まれた子供だそうだ。


次に自分のクランのシンボルを傷つけてはいけないこと。
例えば、エンテ(牛)クランの人間は牛を殺せないし牛肉を食べられない。セネネ(バッタ)クランはバッタを殺せない・食べられない。

クランごとにダンスをするときの太鼓のリズムがちがうらしいが、一地域に多数のクランの人がいる現在ではミックスされているのではないかろうか。

インドのカーストシステムが同列カースト内での結婚を慣習としていた(インターカースト結婚が増えてきているらしいが)のに対し、バガンダクランシステムでは他クランとの結婚を義務付けている(自分の母親のクランの人間とも結婚できない)。それは本来の機能としては近親相姦を禁止するためであったに違いない。しかし現在の人口の増加と地域移動が平易になったことを考えると、慣習として残っているのではなかろうか。

ウガンダにいると、クランの名前をもらう外国人はおおい。ちなみに私は始めカスレ(チマクラン:サルのクラン)、今ではブケニャ(ガビクラン:ウガンダコブのクラン)を名乗っている。ボクの生徒たちがつけてくれた。名前を変えたのは誰も呼んでくれなかったから。ブケニャになっても誰も読んでくれないのは、「カイト」が発音しやすい名前だからだ。

よく村人が「お前は何クランだ」と聞いてくる。これは2つの理由があって、一つは兄弟かどうか。もう一つは恋愛対象・結婚相手として対象内かどうか。日本ではその人となりをみわける変数に「年齢」「性別」「職業・職歴」「出身地域」「免許(できること)」なんかを履歴書に記載するが、ウガンダではその人となりやそんな変数に「クラン」がある。

ほかのアフリカではどんなクランシステムがあるのだろう。

参考ブログ: in my life 「ふたごの名前はいつも」
                  http://ameblo.jp/chamachama105/entry-11382319841.html




ンガビ(ウガンダコブ) @マーチソンフォールズ国立公園

2013/01/04

疲れた日の雑記と疲れを取る日の雑記

ウガンダに住み始めて1年と9ヶ月。

休日はマサカでおいしいお昼ご飯を食べる。
カレーが食べたかったらゴルフレーン。豚肉が食べたかったらチッチャブウェミ(Kijjabwemi)のバー。バーガーが食べたかったら、フィリカデレン。

お腹を満たしたら、コーヒー飲みながら1週間分のメール返信や調べ物などをする。任地でネットは使えない。その後、サウナに行って汗を出す。ウガンダ人によくからまれるが、話が面白くなりそうだったらこっちから積極的に絡んでいく。でも基本は最小限のやり取りだけをする。ボーーっとしたいのだ。1週間ぶりのシャワーを浴びて、スーパーに行く。缶詰など任地では手に入らないものを買う。夕飯にはチップス&チキンを食べる。月曜日から肉は食べられないから、食べ納め。

10人前後で乗るチワンガラ(Kiwangala)村行き、最後の乗合タクシーが現れる時間はわかっている。車やバイク、人の往来をベンチに腰掛けてただただ眺める。何も考えない。不意にからっぽになっていることにメタ認知する。頭も心も、体もクリアになる。

空を見上げると、夕陽と雲が織りなす傑作がある。その芸術に時に嘆息を、時に涙をこらえながらからっぽを楽しむ。1日という長い時間をかけてマントラを唱えずにからっぽに入っていく。

不安とか心配事とか、明日の楽しみや未来への期待感すら全部捨て去って、今を感じる。

ウガンダにずっと住んでもいいと思える日。





2013/01/02

謹賀新年


あけましておめでとうございます。

ウガンダでの年明けも2回目を迎え、帰国まで3ヶ月を切りました。

いよいよゴールも見えてきて、無事に2年の任期を全うできそうです。
ここまでこられたのは、それもこれもウガンダで共に活動する同期隊員やいつも刺激や勇気をくれる後輩隊員たち。そして様々なアドバイスをくれた既にそのほとんどが帰国している先輩隊員たち。なにより日本で待っていてくれている家族や友人たちのおかげです。

残りの任期は2年間で一番充実した期間になる予感がします。

これまで、同僚やダイレクターとの些細なやり取りで「なぜ変わろうとしない」「なぜ一つ一つ丁寧にしない」「なぜ海外ドナーに頼り続ける」と悩み、イラつき、自分の非力さを痛感してきました。
生徒への授業の中でも、自らの伝える能力の低さに愕然としながらも一定の結果を出してくれた彼らに感謝をしています。(この件については別エントリーで)

「それでも」と小学生のように、時には現実から目をそむけつつも、精神の強さが保たれる限り正面からその現実を受け止めてきたことで針の穴のような可能性から「できること」を広げてきました。脆弱な基盤の上で活動をしていることに変わりはなく、いつどうなるかわからない綱わたりをしているような状態は最初からずっと続いています。

今にして思えば、数々の問題を正面から受け止め続けたからこそ、私が「ウガンダ人は、これが必要だ」と思えるものを小さなインパクトながらも彼らば受容できる形で提供できていると感じています。

帰国予定日は3月23日。帰国の際は多くの方にお会いしたいと思います。

本年もよろしくお願いいたします。