Ennyanja Nalubaale- ビクトリア湖

2012/02/10

まさかのシュカ

ご無沙汰して、すみません。遊びに仕事に忙しい今日この頃です。

ザンビアマラウイへ行ってきた。 12月20日から28日まで。

この旅は一緒に訓練を受けた同期隊員が各地から集合するという壮大なもの(笑)
私を含めウガンダから3人

私、ウガンダ人が恐れる空手・理数科隊員チムリ
そして服飾隊員で我がウガンダ隊ぶっこみ隊長末っ子長女サエ。

大体の面白いことは、チムリがブログで書いているので参照してもらいたい。



20日の早朝ウガンダのエンテベ国際空港を発つ。

最初の目的地はケニアのナイロビ。ここでルサカ行きに乗換えをする。
ナイロビには1時間もしないで到着。ウガンダ国外にきた気がしない・・・
アフリカの中でもウガンダは小さな国なのだ。

トランジットの待ち時間は1時間と少し。免税店で時間をつぶす。

普段ウィンドウショッピングなんてできない我々。免税店を歩き回るだけで購買意欲が掻き立てられる。
普段見ることのない(世界では一般的な銘柄)タバコ、(世界では一般的な銘柄の)お酒。
そんな中、やはり国際空港。ナイロビはお土産屋も数多くあった。
別にケニアで何をする(した)わけでもないのに、マライ族の伝統衣装マサイ・シュカを物色。
マサイシュカとはあの赤いチェックの布だ。戦闘民族マサイ族の衣装。着るだけで強くなりそう。
色んなパターンのチェック柄を前に悩むチムリ。それを服飾専門のサエがぶっこむ。
「え~これダサいじゃん」「マサイシュカじゃなくてダサいシュカだよ~」
私(え~~~~!)

そんな中ボーディングの時間になるのだが、飛行機が遅れさらに2時間ウィンドウショッピングの時間が作られる。そして酒とタバコとおみやげ物を見るのにあきる・・・
チムリは結局シュカを買わなかった。

そんなこんなで一路ザンビアへ。飛行時間は4時間ぐらい。これが結構長い。
東アフリカを出る=海外に行く気分。

やっとこさ着いたザンビアはルサカ。空港ではザンビア隊のカズヤさん(仮名)が出迎え。3月に成田で別れて以来の再会。

4人でルサカ市内へ。
そして、何よりも先に直行したのは・・・
ウガンダには無い、あのアレだった。

2012/01/11

新年の楽しみと新年の課題

色々書きたいことがたまってます。
まずは、新年のイベントから。

うちの孤児院に通ってくる子供たちは全員が全員孤児というわけではありません。
3分の1ぐらいが孤児で、エイズ遺児だったり、両親がなくなり家族や親戚に引き取られた子供たちです。
残りの子供たちも認定を受けた学校へ何かしらの理由(そのほとんどが金銭面)で通えなくなった子供たちです。

日本の一大イベントが1月1日だとすると、ウガンダでの一大イベントは12月25日とイースター(移動祝日)。キリスト今日の祝日です。その日は家で育てた鶏やヤギなどの家畜をさばき、ご馳走を食べる日。

昨年のイースターでは私は鶏肉をご馳走になりました。

残念ながらクリスマスは任国外旅行でウガンダにおらず未経験。

神父の挨拶
「あまりお金のないうちの子供たちはご馳走もなかなか食べられない」ということでスタッフが子供たちを呼んで、クリスマス・忘年・新年会をまとめてすることになりました。

まずはちょっと硬い新年のあいさつから。
神父を呼んで子供たちに教育を受ける意味と大切さを説いてもらいます。

その後、お楽しみタイム。ウガンダミュージックをバンバンかけて、子供たちは踊るオドル。
そのリズム感はもはや遺伝子としか説明できません。教室がまるでクラブ。

オドル踊る

そしてお待ちかね、ご馳走。
お母さんたちの炊き出し





メニューは米(ウガンダではもっとも高級な主食)、マトケ。
スープは牛肉。
つけあわせはキャベツ。
私もこれをいただきました。これが御節です。

その後さらにクラブ。
当初の予定ではレクリエーションを考えてあったのですが、子供たちが楽しんでいたので中止、クラブを続行。


そして5時ぐらいに解散。








いつもよりオシャレ
私も踊ってみた。でもかなわない。


 結果的に子供たちが大いに楽しんでくれたので私をはじめ、ダイレクターやその奥さん(彼女もスタッフの一人)そしてヘッドマスター(校長先生のようなひと)も喜んでいました。

ただ、残念なのが大人の方。

上記以外のスタッフが来なかったことです。

あと3人いるのですが、彼らは家族で新年の行事をするのでこれないとのこと。

ダイレクターもがっかりしていましたが、12月のスタッフミーティングで「1月1日にする」と全員で決めていました。私はその時「本当に全員これるのか」そして「子供たちがそんな大事な日にこれるのか」と問うたのですが、全員が全員「自分はこれる。子供もこれるはずだ」と言っていました。

自分たちで決めたことを実行できない。多くの課題の原因はココに集約され、「参加型開発」という世界の国際協力機関が掲げる旗印の最大の欠点がココに体現されているのだと感じています。



2012/01/02

死ぬにはもってこいの年

たとえ、どんなにそれが小さかろうと、ぼくらが、自分たちの役割を認識したとき、はじめてぼくらは、こうふくになりうる、そのときはじめてぼくらは平和に生き、平和に死ぬことができる、なぜかというに、生命に意味を与えるものはまた死にも意味を与えるはずだから。
サン=テグジュペリ「人間の大地」より

あけまして、おめでとうございます。

1月1日の今日、うちの個人で子供たちを招いてクリスマスパーティー兼新年会をしました。昨日から準備して、あまり年を越した気がしません。メリハリつかないですが、昨年の事と今年の決意を少し。

昨年は私にとって大きく前進できた年ではありませんでした。

2011年1月から青年海外協力隊二本松訓練所に入所。
3月11日退所。そして被災。当時新幹線の中にいて「死んだ」と冷静に感じてその瞬間に受け入れていました。
多くの方が亡くなりました。自分もその一人になった可能性があると考えると、生きていることに感謝しています。そして亡くなった命の分まで精一杯活動しなければと出国前思っていました。
被災後の混乱の中、出国。ウガンダへ。


赴任後住居環境の悪さに蚊帳の中に引きこもったり
授業がうまくいかずがっかりしたり同僚や上司と衝突したり、いらいらさせられたり
エイズ患者の親の子のすぐ後ろに迫る「生」危機に絶望と無力感に襲われたりしました。
ほっぽりだそうと思ったことは何度も。


だけど、救ってくれる存在はいたるところにいてくれました。

気持ちよくウガンダへ送り出してくれた人たち。
日本の友人が餞別にくれた本。
ウガンダですばらしい活躍をする先輩隊員やバイタリティあふれる後輩隊員。
そして、3.11死ぬ思いをした同期隊員たち。
何より今、目の前にいる子供たち。
上げればキリのない人たちに支えられながらここまで来ました。



前に進めなかった年でした。
しかし、大きな収穫はありました。多くの種を得ることができました。
2012年、この種を大きく育てるとしだと思っています。

まだまだ、手探りの中での活動になりますが、精進してまいります。
一度死んだ身です。死んだと思って、いい時も悪い時も楽しんでいきます。

本年もよろしくお願いいたします。

2011/12/02

カンパラマラソン3

 急激なアップダウンを繰り返し、心が折れそうになった私。
それを救ってくれたのが、応援に駆けつけてくれた隊員たち。一人でレースに出てきた私にとって友達が沿道で「がんばれ」と言ってくれることにすごく力をもらった。ガツガチに固まったひざを少しだけ上に盛り上げる力がわいた。そして、その勢いのまま37kmの表示板。
「あと5km!」
コースはウガンダのパルコ、ガーデンシティの目の前に下る道に入ります。
ここまで来ればゴールは目と鼻の先。


ところがコースが分らなくなった。。
と言うのは、黄色いシャツの誘導係が忽然と姿を消しているのだ・・・
「どっちに走ればいいの? (??)//アッチ?コッチ?」

とりあえず周りをみわたすと、黄色い服を着た人がポツリ。
「こいつだ!」
とそいつがいってる方向へ。そしてそいつはウガンダのパルコ、ガーデンシティに入っていく。
「アレ?アレレ??」
とはいっても、リタイヤするのも申告しなくていいようだし、ボダボダに乗ってコースを走った輩だっていたし。まあいっか。と4時間切りを目指すことに。
ゴールまであと数キロ。4時間まで20分。
「できるさ!やってやれないことはない!」と鼻息が荒くなる。人類初のモビルスーツによる白兵戦をしてしまった彼のように。

アカシアアベニューという隊員連絡所がある道を登っていく。この登りがしんどい・・・
プロテアホテル(金曜日の肉のバッフェがたまらなくおいしい)の脇の道を抜け、ココロ・エアストリップへ。残り1kmの表示がある。この時点で3時間57分。
「サブ4は無理か・・・でもあきらめるわけにはいかないよね。安西先生」と心を奮い立たせながらゴール!手元の時計で4時間3分。

ゴールで待っててくれた隊員が2人。彼らに祝福してもらいながら他の走ってる隊員の話に。
「後の3人はどこ?」
「え?1人は抜いたけど、2人は知りませんよ。先にゴールしてるはずですけど」とボク。
じゃあ、中に探しにいこうということに。周りは黄色きいろキイロ。見つからない。
すると、待っててくれた隊員がボクの前にいるはずの隊員がその瞬間にゴールしたことに気づく。
「あれ?」とボク。
「あれ?」とボクの前を走ってた隊員。

「あれれ?」

誘導係がいなくなった時点で一抹の不安を感じないではなかった。だけどね。走るしかなかったのよ。
たとえそれが、ショートカットする道だとしても・・・

続々とゴールする選手たち。その選手たちの顔を見ても
「アレ?こんな人ボク抜いたっけ??」最後尾から走ったのにね。。

なんともやりきれない、すごく切ない42.195km(多分39kmぐらい)でした・・・
胸を張って「42km走りました!」とはいえない私でした。

ここからは、総括を。

まず、すごく楽しかった。マラソンは沿道の声援から力をもらい、選手同士で切磋琢磨、引っ張り合い、励ましあいながら作り上げていくレース。その一体感がたまらなく好きだ。

でも残念なことが沢山あった。
そのほとんどがオーガナイズの面。
・スタート時間を繰り上げたこと
・選手の走るルートが最後まで確保されなかったこと(安全面につながる)
・閉会式前にもかかわらず誘導係がいなくなったこと
・フィニッシュラインで拍手をして迎えてくれたのが隊員たちと某アメリカ発の王手NGOのアメリカ人たちのみ。ウガンダ人たちは会場内に設けられたステージに釘付けだった。
たとえ、ウガンダトップアーティストのケンゾーが歌ってるからって、ちょっと残念になった。
もっと盛り上げたらいいのに。お金かけてるんだしさ。

まあその辺がウガンダクオリティーと言ってしまえば、それまでだけど・・・
そこで止まってちゃ、いいオーガナイズはできないと思う。

楽しくも、切ない思いを残してくれた恋のようなレースだった。

おつかれさまでした。
応援してくれた人たち、ありがとう。

2011/12/01

カンパラマラソン2

前半12kmを5分を切るタイムで入って、ウハウハな私。
「このまま行けば、サブ4(4時間切り)か?!」と調子に乗って中盤へ。

Kasubi Tomb


中盤のコースは世界遺産にもなっているカスビのブガンダ王国歴代カバカ(王様)の墓や王宮を通過する。「景色を楽しみながら走れるな~」とレース前に抱いた期待は残念な結果に。
カスビの墓は丘の上にあるのだが、私はその100mぐらい下の道を下っていく。
王宮はその真横の道を走るのだが、高い塀で王宮が見えない・・・

寂しい気持で走ってるとこに「チャイナ!」や「ムズング!」「走れ!」、「前に追いつけ!」なんて野次とも応援とも取れない罵声とも、冷やかしとも言える声援を浴びせられ、バカにしたような笑いをむけてくる。
普段、冷やかしでチャイナなんていわれると、ムカつくんだけどこのときは別。
その冷やかしすら、声援と受け取ってがんばれてしまうんだから、マラソンは不思議なものだ。

そして、コースはカンパラ中心部から遠ざかっていく道へ。
そして半分をすぎたあたりから、アップをしていない筋肉が悲鳴を上げだす。
こういう苦しい時にはペースメーカーやひっぱてくれる人がほしいところ。
幸運にも同じぐらいのペースで走る、欧米人を発見。
彼の後ろにぴたっとついてひたすら彼の背中を見つづる。しばらくして私が彼の前に出て引っ張ることに。

こんな感じで再びカンパラ中心部へ。
マケレレ大学の脇の道を走り、豚の炭火焼がおいしいワンデゲヤへ。
ワンデゲヤを過ぎたあたりから、ちょっとした坂道でも走って登れなくなり、引っぱり合った欧米人は遅れ気味になる。ワンデゲヤを過ぎるとカンパラの目抜き通り、カンパラロード。
ここまで、コースはしっかりとコーンで区切られていて、しっかり道が確保されていた。
しかし、ここから先そのコーンはなくなり、交通規制もなくなった。

目抜き通りを走るのに、だ。
マタツ(タクシー)やボダボダ(バイクタクシー)が入り乱れる中、路上を走る私。なんとも複雑な気分。「街、いや国を上げての一大イベントではないのか?」客を下ろすために路上に止めたマタツを道路側へ避けること数十回。歩道を走ること数百メートル。

それは、「日常をのっとる祭りとしてのマラソン」というより「日常の中にマラソンがお邪魔した」感じ。
「ごめんなさ~い走らせてもらいま~す」

このあたりになると、誰も選手に目を向けない。応援もされなくなる。
選手もまばらになる。ちょっと寂しくなる。

距離は30kmほど。終盤へ差しかかります。30kmの壁と言われる苦しいところ。心が折れそうになる。
そんなところへ救世主が!
そして、最後の最後にとんでもないことが!!!!

つづく。