Ennyanja Nalubaale- ビクトリア湖

2013/09/29

タンザニア旅行

隊員の時にしかできない旅行「他国の隊員の任地を巡る旅」



そう思って、タンザニアへ。


ザンジバル



 奴隷貿易時代はその拠点としてさかえ、それよりもはるか昔はエジプトが、マスカット・オマーンが象牙や香辛料を求めて往来した島です。サンジバルの語源は”ザンジ”。ペルシャ語で「黒人」を意味する言葉。ペルシャ語が語源という時点で歴史の長さを感じさせます。そして、東アフリカのスワヒリ文化圏の拠点となった土地でもあり、スワヒリ文化はイスラム文化の影響を色濃く残しています。スワヒリ文化圏は今のソマリアのモガディシュやキスマヨあたりからモザンビーク中部のソファラあたりまでの非常に縦長な文化圏だったとか。しかし反面、内陸へはたかだか30km程度という海岸沿いに集中した文化だったとか。スワヒリの語源は”サワーヒル”。アラビア語の「海岸、河畔」を意味しています。

 その文化圏の中心地だったザンジバル。青い空と碧い海。白い街がある島。海を見るのは1年11ヶ月ぶり。やっぱりほっとします。そしてコーヒー屋さん・カフェがとても多いところにタコの足を揚げたものやココナッツを売り歩いている売り子もいる。南国空気とアラビアの文化とアフリカ風土がごちゃ混ぜになった場所はとても魅力的でした。

さて、ザンジバルでは理学療法士隊員と井戸掘り隊員の活動を見学。
二人とも問題を抱えつつも少しづつ前に進めようとしていました。そして二人のザンジバル文化への適応加減も驚きでした。
何やら打ち合わせ 細かいコミュニケーションが成功の鍵

地下16mでの井戸掘り作業

本土へ向かい、村落隊員と自動車整備隊員の活動を見学。
二人ともスワヒリ語を巧みに使い仕事をしていました。そして二人の仕事に対する真摯な姿勢に尊敬しました。


スワヒリ語で指導しながら一緒に作業

隊員が建設指導をした道。以前はただの獣道だった



ウガンダとは全く違う景色に圧倒されるばかり。この広さはウガンダにはありません。



 タンザニアの行政上の首都ドドマから4時間ほど離れたコンドアの岩絵遺跡群まで足をのばしました。世界遺産の中でも人の訪れは少ない方だと想像できます。だってKiwangala村と大して変わらない村の規模。そしてアクセスの悪さ・・・それでも行ったのは人類発生の地のロマンを感じたいから。



 

 帰国した今振り返ると、他国の隊員活動を拝見することは貴重な体験だったと実感します。「なぜ自分が活動を失敗したのか」「うまくいっている人は何がそうさせているのか」そんなことを客観的に見れた旅でした。国が同じウガンダ隊員の活動を見ることも大きな勉強でしたが、そういった時は「ウガンダの文化・ウガンダ人」側から自分の活動や発言方法などを考えがちになります。しかし、国という共通項(東アフリカは残る)が無くなると「隊員活動の手法や姿勢」という自分たち側から活動を振り返ったり自己評価することができました。「そしてそれはこれから国際協力活動をする時に必ず役にたつと信じています。

2013/09/22

ルワンダ旅行

半年以上前のことなのですが・・・書いて公開していなかったので、遅ればせながら公開させてもらいます。









隣国ルワンダへ行ってきました。

家から陸路で数時間なのですが、飛行機で。飛行機もエンテベからキガリまで40分程度。
「飛んだ」と思ったら「降りだした」飛行時間。
そして機内で出たビールは500ml。
着陸ギリギリになんとか飲み干した次第でした。

さて、首都キガリはとてもキレイ。清掃委員が四六時中掃除をしているよう。
しかもルワンダのすごいところはプラスチックバック(ビニール袋)が一切ないこと。お店は全部紙袋だし、出入国時はプラスチックバックを回収されることも。


そんなキレイなルワンダ。ルワンダというと、90年代の大虐殺が記憶に新しい人も多いのではないでしょうか。映画の「ホテルルワンダ」や「ルワンダの涙」がそうですね。大学生の頃「ホテルルワンダ」を見たときの衝撃は凄まじいものがありました。





実際ジェノサイドミュージアム(虐殺記念館)は首都のほか、各地にあります。滞在日数も短いことから、ボクは首都の記念館のみ足を運びました。
展示物はキレイにまとめられており、被害者の頭蓋骨や衣服の展示、ジェノサイドまでにいたった経緯を説明するパネルなど丁寧な内容。長崎の原爆資料館に近いです。それでも映像や写真が残っており、パンガ(ナタ)で人が人を殺す映像(遠目なので生々しくはあまりない)や見るも無残な死体の写真なども展示してありました。実際白骨やホルマリン付の遺体を残している教会もあるそうです。

ルワンダは数年前に公用語がフランス語から英語へ変更されました。それでも日常的にはもうひとつの公用語であり現地語のキンヤルワンダ(Kinyarwanda)が使用されこれは隣国のウガンダの多数はの言語、ガンダ語やルワンダ国境沿いに住むニャンコレ族が使うルニャンコレ(Lnyankole)とは似ても似つかない別の言葉。バスに乗ったはいいが行き先をコンダクターに伝えられない(笑)そしたら、隣に座っていたルワンダ人女性が流暢な英語で助けてくれたり。ウガンダよりもいい国と思わせられてしまいます。


同期の活動を見にウガンダ国境沿いのニャガタレ(Nyagatare)まで足を伸ばしました。キガリから約3時間。美しい湖と丘がボクを寝かせてくれません。しかも、バスの隣に座ったおじさんが協力隊員の同僚だとか。世界はせまいものです。

ニャガタレの村落隊員は地元の特産品のハチミツに目を付けて、組合と一緒になって質の高いハチミツの生産に成功。彼のすごいところはこれをすぐにお土産にするのではなく、地元の人たちで消費することを1番の目標にしていたこと。普通ならすぐにお土産や海外旅行者むけにつくりたいところですが、飛躍せずに活動している。(現在は帰国)



ウガンダの国境沿いという土地でもあるせいか、村人はガンダ語を知ってたりします。「子供の頃、ウガンダに亡命してたんだよー」とか「ラカイに住んでたんだ」というのを当事者から聞くと急に「亡命」とか「難民」とかっていうコトバが現実の匂いをかもし出してきます。TVや本では絶対出せない匂いです。そんな彼らもボクと久々にガンダ語をしゃべれて嬉しそう。「亡命」というコトバを介して想像するウガンダでの生活は不安が常にあったのかな、なんて想像しますが多分そんなになかったんじゃないだろうかとも想像する。だって「今」を大切にする(しか見れない)アフリカ人だから。

そしてこの地方はウガンダ側の国境に住むニャンコレ族と似た特徴を持っていました。まずはコトバ。ルニャンコレをしゃべれる人がいるよう。そして食文化。この地方では牛は食さないらしく山羊が主に食されているとのこと。ボクのニャンコレ族の同僚も牛は食べないんだとか。さらに仕事。この地方の人々は牛追いをして生活をしているらしいのですが、ウガンダのニャンコレ族もこの特徴を持っています。ウガンダでは「ニャンコレ牛」はブランド化してあり、ニャンコレ族はチーズなどの乳製品を生産しています。国境と民族を考えるとアフリカの歴史の複雑さと奥深さを感じます。

もちろん今現在のルワンダに問題がないわけではないです。キレイな街、静かな国民の影には「他者に民族を聞いてはいけない」法律や昼夜問わずパトロールをする警察。ルワンダ隊員曰く「臭いものには蓋をする」方法で過去の失敗や悲しい事件を忘れようとしています。そして、その危うさも感じました。隠したり見ないようにすることはいい。だけど隠しきれなくなったとき、目を背ききれなくなったときの危うさです。

でも、こうも思うのです。今だに目を背けられずには生きては行けない出来度とだったのだと。部外者が「目を背けずに」なんて口が裂けても言えません。