Ennyanja Nalubaale- ビクトリア湖

2011/05/18

あいさつの意味

前回のエントリーではウガンダ挨拶に対して私の個人的な面倒さについてでしたが、今回はその奥に秘められたものを感じたので、ある仮説としてみる。

と、かっこつけて言ってみる。

「挨拶とは助け合うことの確認作業である」という仮説である。

その根拠はこうだ。
村ではものの貸し借りがある。
「飲み水をくれ」と隣人から言われることがある。
「電気をくれ」と隣人から言われることがある。
(私は今のところないが)「金を貸してくれ」ということもよくあるらしい。

井戸でくんだ水はそのままでは飲めない。畑仕事をしている子が"Assist me drinking water"といって家へ来たことがあった。

まあ、間違っている英語は目をつむる。ウガンダでは通じているから意思疎通はできるのだが、やはりまちがっている。それを直してあげようとは思わない。

それはさておき、彼はお隣さん。彼には村での生活のことをいろいろ教えてもらった。だから彼の家が目と鼻の先でも、いつも助けてもらっているしいいかと思いあげた。

また、こんなことがあった。
小腹がすいたので400ushだけ持って村の中心(トレーディングセンター)へ。とうもろこしをはじめて買ってみようかと思ったら500ushだった。しょうがないのでチャパティ屋へ。チャパティとは小麦粉を薄くのばして焼いたものでクレープみたいなお菓子だ。いつも料理をする気が起きないとき、村での生活を拒否していた時はチャパティのお世話になっていた。
チワンガラのチャパティの屋台は3つ並んでいる。私はいつも同じところで買っていた。
400ushだと2枚かえる。その日も2枚買うつもりで「二枚くれ」というと。
「お前はいつも俺のところで買ってくれる、俺のカスタマーだ。だから一枚まけてやる」と1枚よけいに包んでくれた。

この水をあげた隣人も、チャパティを1枚多くくれた兄ちゃんも会えば必ず挨拶する人たちだ。

逆の場合を考えてみる。日本の場合だ。
現代の日本で、あなたは隣人との挨拶はどのようにしているだろうか。

「こんにちは、ご無沙汰しています?」と近況の会話をしているだろうか?
会釈だけだろうか?
それても見てみぬふりをしているだろうか?

あなたはもし自分が困ったとき。急にお金が入用になったときに隣にお金を借りに行くことができるだろうか?

これは極論である。

日本とウガンダでは社会システムがちがう。
日本だとお金は金貸しからかりるだろうし、急病の時は救急車を呼べばいい。

しかし、ウガンダでは金貸しから金をかりることができるほど現金収入の余裕があるわけではないし、救急車も走っていない。
だから、バイクやタクシーの人と仲良くしとく必要があるし。
仲良くするために、相手が困っているとき助けないといけない。

”助けないといけない”というと義務のようになってしまうが「友達が困っているときに助けるのは当然だろう」と彼らは言う。

つまり助け合いというセーフティーネットがウガンダにはあるのだ。
日本はその助け合いをシステムにした。社会保障制度というやつだ。

挨拶とはある種助け合いのセーフティーネットの存在の確認作業の機能があるのではないだろうか。

私はあたってはいなくても、大きく外れているとは思っていない。

さてこの伝統的ともいえる社会の中に”モノとカネをもっている”と見える人間がいたらどうだろうか。
そのことについては次回のエントリーで。

2011/05/17

あいさつするのも楽じゃない

ここはウガンダ共和国ルウェンゴ県(Luwengo District)チワンガラ村(Kiwangara)。


アフリカではどうかわからないが、ウガンダでは外国人を見ると「ムズング!」と必ず声をかけられる。
Muzungu=Europeanがもともとの意味らしいが今では「白い外人」と言う意味で使われている。
この”白い”にもレベルはあるようだが、インド人は「ムズング」ではないようだ。

さて、本題であるが、挨拶からストレスが溜まるということと、そのストレス解消方について、私の心の中での出来事とあわせて記そうと思う。

チワンガラでの生活を始めた3日は蚊帳の中で暮らした。
完全に全てを拒否していた。
牛とヤギの糞を踏みしめて行くトイレも、触れば崩れ床を汚す砂も、腰が痛くなる堅い椅子も、さびの目立つドアも、トタン一枚の屋根も。
とくにトタン屋根。雨が降ればうるさく騒ぎ、鳥が止まればこれまたうるさく、夜中風が吹いて屋根と接している木がゆれれば目が覚める。

だから赴任時に持ってきたお菓子と水とPCをベッドの中(蚊帳の中)に持ち込んで、一歩も外に出なかった。

それでも、食料が、水が尽きれば外に出ざるを得ない・・・

不思議なことにこの時期は冒頭の「ムズング!」という呼びかけに快く手を振っていたし、挨拶も快くしていた。

とくに子供は、何回でもボクを呼び止め、振り向かせ、手をふらせる。
別にそれがいやではなかったし、「村の中に」とか「受け入れてもらうため」と思っていた。

いつだったろうか、突如としてそれが苦痛に感じるようになる。
くしくも、料理をはじめ、村の食堂で食事を取り、なんとなく生活らしいことができるようになってきたころだった。

何度も何度も同じ子供が「ムズング!」とボクのことを呼び続けることに嫌気がさすときが多くなっていった。
まあ、誰だって「外人!」だとか"Outsider"って言われて、常にいい気分でいられる人はいないだろう。
とは言っても、こちらの気分で子供の挨拶を無下に扱うわけにもいかない。

なので使い分けることにした。

1."Muzungu"だけの呼びかけには遠くなら気がつかないフリをする。
2.それに"How are you"がつくと、はるか後方からでも振り向いて手を振る。
3.前方からならどちらもなるべく挨拶をする。ただし気分が落ちているときは手を振るのみ。
4.一緒に歩こうとする子供には元気?ときく。
5.気分に余裕があるときは可能な限りちゃんと挨拶をする。

理想は当然5の状態だ。最近は慣れたせいかあまり苦痛には感じない。面倒だとは思うが。
常にそういうわけにはいかない。

根本的なところになるがボランティアとか人のために何かするというのは自分自身に気持ちの余裕がないとできない。
であるなら、「自分の気持ちの余裕の持ち方」、言い換えれば気分転換の方法を見つける必要がある。

今までなら体を動かすことと本屋とカフェのはしごだったのだが、本屋とカフェはない。
ランニングならできるが、そとを走るとやはり「ムズング!」と声をかけられる(笑)

「走っているから呼びかけにはこたえない」っていうスタンスで走ってみるか・・・
それを明日試してみよう。