Ennyanja Nalubaale- ビクトリア湖

2011/12/02

カンパラマラソン3

 急激なアップダウンを繰り返し、心が折れそうになった私。
それを救ってくれたのが、応援に駆けつけてくれた隊員たち。一人でレースに出てきた私にとって友達が沿道で「がんばれ」と言ってくれることにすごく力をもらった。ガツガチに固まったひざを少しだけ上に盛り上げる力がわいた。そして、その勢いのまま37kmの表示板。
「あと5km!」
コースはウガンダのパルコ、ガーデンシティの目の前に下る道に入ります。
ここまで来ればゴールは目と鼻の先。


ところがコースが分らなくなった。。
と言うのは、黄色いシャツの誘導係が忽然と姿を消しているのだ・・・
「どっちに走ればいいの? (??)//アッチ?コッチ?」

とりあえず周りをみわたすと、黄色い服を着た人がポツリ。
「こいつだ!」
とそいつがいってる方向へ。そしてそいつはウガンダのパルコ、ガーデンシティに入っていく。
「アレ?アレレ??」
とはいっても、リタイヤするのも申告しなくていいようだし、ボダボダに乗ってコースを走った輩だっていたし。まあいっか。と4時間切りを目指すことに。
ゴールまであと数キロ。4時間まで20分。
「できるさ!やってやれないことはない!」と鼻息が荒くなる。人類初のモビルスーツによる白兵戦をしてしまった彼のように。

アカシアアベニューという隊員連絡所がある道を登っていく。この登りがしんどい・・・
プロテアホテル(金曜日の肉のバッフェがたまらなくおいしい)の脇の道を抜け、ココロ・エアストリップへ。残り1kmの表示がある。この時点で3時間57分。
「サブ4は無理か・・・でもあきらめるわけにはいかないよね。安西先生」と心を奮い立たせながらゴール!手元の時計で4時間3分。

ゴールで待っててくれた隊員が2人。彼らに祝福してもらいながら他の走ってる隊員の話に。
「後の3人はどこ?」
「え?1人は抜いたけど、2人は知りませんよ。先にゴールしてるはずですけど」とボク。
じゃあ、中に探しにいこうということに。周りは黄色きいろキイロ。見つからない。
すると、待っててくれた隊員がボクの前にいるはずの隊員がその瞬間にゴールしたことに気づく。
「あれ?」とボク。
「あれ?」とボクの前を走ってた隊員。

「あれれ?」

誘導係がいなくなった時点で一抹の不安を感じないではなかった。だけどね。走るしかなかったのよ。
たとえそれが、ショートカットする道だとしても・・・

続々とゴールする選手たち。その選手たちの顔を見ても
「アレ?こんな人ボク抜いたっけ??」最後尾から走ったのにね。。

なんともやりきれない、すごく切ない42.195km(多分39kmぐらい)でした・・・
胸を張って「42km走りました!」とはいえない私でした。

ここからは、総括を。

まず、すごく楽しかった。マラソンは沿道の声援から力をもらい、選手同士で切磋琢磨、引っ張り合い、励ましあいながら作り上げていくレース。その一体感がたまらなく好きだ。

でも残念なことが沢山あった。
そのほとんどがオーガナイズの面。
・スタート時間を繰り上げたこと
・選手の走るルートが最後まで確保されなかったこと(安全面につながる)
・閉会式前にもかかわらず誘導係がいなくなったこと
・フィニッシュラインで拍手をして迎えてくれたのが隊員たちと某アメリカ発の王手NGOのアメリカ人たちのみ。ウガンダ人たちは会場内に設けられたステージに釘付けだった。
たとえ、ウガンダトップアーティストのケンゾーが歌ってるからって、ちょっと残念になった。
もっと盛り上げたらいいのに。お金かけてるんだしさ。

まあその辺がウガンダクオリティーと言ってしまえば、それまでだけど・・・
そこで止まってちゃ、いいオーガナイズはできないと思う。

楽しくも、切ない思いを残してくれた恋のようなレースだった。

おつかれさまでした。
応援してくれた人たち、ありがとう。

2011/12/01

カンパラマラソン2

前半12kmを5分を切るタイムで入って、ウハウハな私。
「このまま行けば、サブ4(4時間切り)か?!」と調子に乗って中盤へ。

Kasubi Tomb


中盤のコースは世界遺産にもなっているカスビのブガンダ王国歴代カバカ(王様)の墓や王宮を通過する。「景色を楽しみながら走れるな~」とレース前に抱いた期待は残念な結果に。
カスビの墓は丘の上にあるのだが、私はその100mぐらい下の道を下っていく。
王宮はその真横の道を走るのだが、高い塀で王宮が見えない・・・

寂しい気持で走ってるとこに「チャイナ!」や「ムズング!」「走れ!」、「前に追いつけ!」なんて野次とも応援とも取れない罵声とも、冷やかしとも言える声援を浴びせられ、バカにしたような笑いをむけてくる。
普段、冷やかしでチャイナなんていわれると、ムカつくんだけどこのときは別。
その冷やかしすら、声援と受け取ってがんばれてしまうんだから、マラソンは不思議なものだ。

そして、コースはカンパラ中心部から遠ざかっていく道へ。
そして半分をすぎたあたりから、アップをしていない筋肉が悲鳴を上げだす。
こういう苦しい時にはペースメーカーやひっぱてくれる人がほしいところ。
幸運にも同じぐらいのペースで走る、欧米人を発見。
彼の後ろにぴたっとついてひたすら彼の背中を見つづる。しばらくして私が彼の前に出て引っ張ることに。

こんな感じで再びカンパラ中心部へ。
マケレレ大学の脇の道を走り、豚の炭火焼がおいしいワンデゲヤへ。
ワンデゲヤを過ぎたあたりから、ちょっとした坂道でも走って登れなくなり、引っぱり合った欧米人は遅れ気味になる。ワンデゲヤを過ぎるとカンパラの目抜き通り、カンパラロード。
ここまで、コースはしっかりとコーンで区切られていて、しっかり道が確保されていた。
しかし、ここから先そのコーンはなくなり、交通規制もなくなった。

目抜き通りを走るのに、だ。
マタツ(タクシー)やボダボダ(バイクタクシー)が入り乱れる中、路上を走る私。なんとも複雑な気分。「街、いや国を上げての一大イベントではないのか?」客を下ろすために路上に止めたマタツを道路側へ避けること数十回。歩道を走ること数百メートル。

それは、「日常をのっとる祭りとしてのマラソン」というより「日常の中にマラソンがお邪魔した」感じ。
「ごめんなさ~い走らせてもらいま~す」

このあたりになると、誰も選手に目を向けない。応援もされなくなる。
選手もまばらになる。ちょっと寂しくなる。

距離は30kmほど。終盤へ差しかかります。30kmの壁と言われる苦しいところ。心が折れそうになる。
そんなところへ救世主が!
そして、最後の最後にとんでもないことが!!!!

つづく。

2011/11/30

カンパラマラソン1

 ウガンダにレジャーは少ない。
美術館や博物館、映画館の数が文化的水準の高さを表すものとするのなら、悲しいかなウガンダは乏しい。遺跡もほとんどない。
隣国のエチオピア・ケニアに比べると見劣りする。
今エントリーはそんな「文化」なんて高尚な話題ではないが(一大)イベントがあった。

MTNカンパラマラソン
MTNとは南アに拠点を置く電話会社。NTT(ドコモ)見たいな感じ。ただその守備範囲は西はガーナ・コート・ディ・ボワールから東はアフガニスタン。南はザンビア・南アとアフリカ、中東をカバーするどこでもDo Communicationができてしまう。ビックな会社。
そのMTNがスポンサー・主催をするマラソンが、カンパラマラソンだ。

レジャーが極端に少ないウガンダで私が待ちに待った一大イベントがこれ。
今年9月にあるはずだった、トライアスロンが中止になり、「他になにがあるよ?」と気合十分。

私を含め隊員の出場は6名。内2人がハーフ。
もちろん私はフルマラソン。
約1年ぶりのレース。フルは1年半ぶり。ロードレースは初めて。
さらに開催日程がいろいろ前後し、本決まりになったのが2週間前。
練習不足、調整不足で当日を迎えた。

当日は6時50分スタート。

前日から、「調整に40分ぐらい流して~」「アレ食べて、コレ飲んで」「コレ持って走って、アレ着て走って」とワイワイ準備をすることが楽しくて仕方がなかった。だって、今までのレースは全部自分一人で準備してたから。
さびしがりやです。

それはさて置き、当日は5時起き。
6時20分頃にスタート地点のコロロ・エアストリップに到着。
ワサワサとあわただしい中、したく。
6時40分ぐらいにハーフを走る、隊員と先にスタート地点に向かったフル出場の3人のもとへ。
が、ヒト・ヒト・ヒト。見つからない。
そして、周りは10kmにエントリーした人たち。「21kmはあっちだ」と教えられ。私もノコノコついていった。
そして「フルの選手たちはどこにいるんだ?」とハーフに出るウガンダ人に聞くと「フルはもうスタートしたぞ!」
私「は?まだ47分なんですけど!」
スタート時間前にスタートする意外性の発揮。アップも満足にしてません。
当然私は一人ぽつんと最後尾からのスタート。
「ま、いっか。誰に抜かれるわけでもないから、楽に行こう~。時間は自分の時計ではかっとうしー」とのんきにスタート。

ルートは前日に地図をもらったばかりで頭に入ってない。
道案内がいないと全くわからない・・・
でも、黄色いシャツを着た誘導係がいたので大丈夫。

で、走ってるとなにやら後ろからパトカーのサイレン音。
「事件か?」

パトカーが私の脇をすぎ、白バイがすぎ、二台に電光掲示板をのっけた先導車がすぎ・・・。
ハーフの選手たち。

このマラソン。ウガンダのナショナルチームが出場しており、隣国の招待選手も出場してる。賞金もでる。フルマラソンの優勝賞金が16,000,000Ush。約40万円。

世界屈指のランナーが私の横をズバッと集団で抜けていく。
一瞬世界のスピードについていこうかと思ったが、次の瞬間には心は折れた。
1km3分10秒台で走るスピードは見るだけで十分だった。間近で見られただけでよかった。

ハーフの選手にドンドン抜かれながら走る私。

ペースがわからない私は5kmか10km地点でペースを見ることに。
でも最初の距離表示は12km。 「うわ~~~中途半端~」と時計を見るとなんと58分!
1km5分を切るハイペース。でもそんなペースで走ってるつもりはない。

「ん?おかしいぞ」と思いつつもちょっとウハウハな私はレース中盤に入っていきます。

つづく。

2011/11/24

ウガンダの先入観。それは日本人みんな空手ができると信じて疑っていない。

先週、Mityana(ミティヤナ)県Ssekanyonyi(セカニョニ)で日本文化紹介イベントが行われた。私は他の隊員たちと音楽隊を結成。
普段、生の音楽に触れることの少ない小学校の子供たちにいろんな種類の音楽に触れてもらおうと、ア・カペラやリコーダー演奏などをした。

イベント全体の詳細はリンク先を見てもらえるといいと思う。

なので、今エントリーの主人公は空手を披露した同期隊員のキムニイことチムリ

貸切タクシー(マタツ)で2時間ほどして開催地の学校に到着。


サングラスをかけたチムリ登場に、子供たちビビりまくり逃げる。














イベント開催の挨拶、ブース準備もそこそこにチムリが道着を着ておもむろにストレッチ。

そして型を見せ始める。

バッ!バッ!!とこぶしを振る音に子供たちが吸いよせられる。

あっという間に数人が弟子入り。

その光景は、まさにカラテキッド

子供に真剣指導するチムリはまるでノリユキ・パット・モリタ

子供たちは「師匠!」といって彼のそばから離れなかった。

そしてお待たせ、演舞の時間。

全校生徒の前で型と板割りを疲労するチムリ。

ガチでやる気。

ところが板が割れなかったんだな、これが・・・

正拳突きを1度、2度、3度・・・

なんとかポロっと板が割れた。

一発で割れずスンゴイ悔しかったのか、チムリは中途半端に割れた板をヒザでバキ!っとやってた。

いい感じに師匠してたのに、面目次第もなかったのでした。
その後、子供が小さく割れた板をさらに割ろうとこぶしを立てていたので、あわてて止めたのは言うまでもない(笑)


ミヤギさんと、ダニエル

2011/11/17

セネネキャッチャー

私の住んでいる地域のマサカはウガンダでも有数のセネネ産地。

となると、前回エントリーの高級バッタ食材、セネネはいったいどうやって採ってるのよ?となる。
じゃあ、「行ってしまえ」と行ってきました、セネネ採取場!

 セネネは夜に光を使って集めて採る。
雨季になると夜な夜な工業地帯の様にコウコウと光をはなつ採取場。
今回初めてその中に足を踏み入れた。

採取方法はいたってシンプル。
ドラム缶をライトを中心にして並べ、その上にトタンを立て掛ける。
そうすると光に寄せられたセネネがトタンにぶつかり気絶
トタンを滑ってドラム缶の中へ。というわけだ。

近寄ってみると、思ったよりも大きなドラム缶とトタンの高さに圧倒される私。
働いているセボ(男性)に一日にどのくらい採れるのか聞いてみた。
するとドラム缶3分の2は採るというのだ!
まあ、大げさに言っているだろうから、「(多い時で)ドラム缶3分の2」と解釈したほうがいいだろう。
前回エントリーでコップいっぱいが6,000ughというのだからドラム缶1缶でいったいいくらの儲けになるのだろう。

電気代がかさむと思うが、それでも1日で余りあるほどの現金を手にすることができそうだ。

そういう今日、うちの村は停電なんですけどね・・・

季節モノのセネネ。
毎日採れるわけでもないし、毎回大量というわけでもないだろう。
それでもウガンダでの季節モノ産業の一翼を担っていることに間違いはないはずだ。

それはまるで、秋の栗。冬のカニ。そして雨季のセネネ。

あとアリとかも季節モノ。

ウガンダの季節モノをもっと探してみたい。





2011/11/08

グルメレポート Senene丼(セネネどん)

世界にはゲテモノに分類される食材がたくさんある。
そしてそれは文化圏で全く異なるもの。
日本の代表的ゲテモノ食材はなんだろう?
生魚?サカナの卵? くじら?
それを決めるのは、それを食べる人。

ウガンダの食材で日本人がゲテモノと言うのはきっとバッタ
日本にもイナゴなんかあるけど、やっぱりゲテモノ

セネネと呼ばれている。

セネネにもシーズンがあって、セネネが市場に出回ると雨季の真ん中にいることを教えてくれる。

この時期はよく調理済みのセネネが道端で売られている。

それでね、グルメレポート的には自分で調理と思って、初めて生きてるセネネを買ったの。

まず驚くのはその高級感。
コップいっぱいで6,000Ush(約240円)
ちなみに米1kgが3,500(約140円)だからその値段の高さをご理解いただけるだろう。

私はコップいっぱいも食べれる自身がなかったので半分にしてもらった。
そのセネネでセネネ丼を作ってみた!

材料(1人分)

米   1合
セネネ 半カップ
塩   少々
醤油  少々








調理方法はいたって単純。
ゴハンの上に煎ったセネネをのせて、醤油をかけるというもの。
セネネを煎ってる途中に塩をふり、カリカリになるまで仕上げる。
緑の彼らが、ちょっと茶色くなるまで。

親子丼に勝るとも劣らないタンパク質豊富な丼になった。

セネネはエビのような味。さくさくとした食感。

桜海老ゴハンを食べているようにかきこんじゃったよ(笑)


         ごちそうさまでした。

2011/10/18

ウガンダ的日本人

少々、愚痴気味な書き方をさせてもらう。

異国での生活は、全ての事象に「なぜ」と問い続けることと、積極的な情報収集に対してのモチベーションが下がってくる6ヶ月目以降の生活ではそれらをいかに保ち続けるか、いかに呼び覚まさせるかが大事になってくるだろう。

だが、いくら「なぜ」と問うても理解のできないことはある。

先週のある日、夜明け前から雨が降っていた。
やんでも、またすぐに振り出すという具合だ。

ウチの学校は子供が全員で集まって雨をしのげる場所など無い。
いや、ウガンダの学校全部に当てはまることかもしれないが。

なので朝の朝礼は雨がやんだすきをみて行われた。
朝礼はいつも8時からだが、今日は9時ごろになった。
それでも朝礼中に雨は降ってくる。

遅刻してくる子供なんて毎日10人ぐらいいて、体罰をうける。
内容はその日によって変わるが、今日は「雨の中ずっと立っておく」というものだった。

朝礼はいつもの1時間遅れ。
天候によっての予定変更はこの国では当たり前だし、仕方の無いことだと思う。

だが、その罰と他の先生の行為にボクは本気で腹を立てた。

朝礼中の先生は屋根のあるところに立って朝礼をながめる。
朝礼を終わらせると、遅刻してきた子供に雨の中立っているよう指示をする。

普段「子供の健康が~」とか「教育が~」とえらそうに正論をぶつけてくるくせに、そういうことを平気でする。それでいて、自分は教育者づらをする。

それが「ウガンダの教育方法だ」といってしまえば、それで終わりなのだが、それでは子供の健全な教育はできないとボクは思う。

大人が手本になるべきであるはずだ。
そいういう大人の行為を見て子供はどう思うのだろうか

今の大人は自分が子供だったとき、大人のそういう行為を見てなんとも思わなかったのだろうか

この学期は3学期で最終学期。この学期まではウガンダのやり方を学ぼうと思い、意図的に批判的な意見をすることを控え、忠実に彼らのやり方に従っていた。
「日本」とのやり方の違いを知らないまま何を言っても、受け入れられないだろうと思っていたからだ。
しかし、その「日本」がボクの中からそぎ落とされた今では、いいこと悪いことを判断することが感覚的にできるようになってきたと思えてきた。「ウガンダ的日本人」になりつつある。



だから、そろそろ、ブッコんでいってもいいですか?

2011/10/14

援助の下請け その3

今年8月、2ヶ月前のことだ。

私のいるNGOはエイズ予防啓発やHIVポジティブのグループへの支援を行っている。

UNFPA(United Nations Found for Population Activities 国連人口活動基金)

からコンドームの配布があった。大量に。
周辺の村の人へ配ってほしいとのこと。
それもただ配るのではなく、プログラムとして配布してほしいとのこと。
各パリッシュのVHT(village health team=)をとおして若い男女を集めてHIV感染予防のトレーニングを3日間受けてもらった上でコンドームを配布するというもの。
このプログラムがUNFPAから持ち込まれたものなのか、うちの配属先がアイディアを出したのか定かではない。が、多分UN側からだと思う。

私は村人集めを手伝った。
バイクで村を回って、一人ひとりに会って、口頭で時間、場所を教えてきてくれるようにお願いする。
180人を集める予定なのだが、1日に会える人はせいぜい40人。
「メールで一斉送信」
っていう方法がどれほど便利か思い知らされると同時に、これが途上国の村の人のやり方なのかと勉強する。
まあ、私はいてもいなくてもよかったから、2日付き合って、後は他のスタッフだけでいってもらったが。

トレーニングは日曜の昼にはじまった。

日時はダイレクターが決めたがその日時を聞いたとき、「あぁ、こいつ馬鹿だ」と思った。

だって、日曜ってみんな教会に行くのに。
昼からにしたって、絶対に集まらない。
それでも、彼は強引にその日時で集めたわけだ。
村人の生活に我々NGO側が合わせるのか、村人が我々NGOにあわせてもらうのか
答えははっきりしている。 ちなみにうちのダイレクターは教会へは行かない人だ。

それでそのトレーニングの初日だけ覗かせてもらったが、来た参加者は40人そこそこだっただろう。
トレーナーは別のところから呼ばれた人がしていて、HIV/AIDSに対する知識やトレーナーとしての経験もありそう。
私はこの件にはノータッチの方がよいと判断して任地を離れた。首都で先輩隊員の中間報告会があったためだ。

首都からチワンガラへ帰って、オフィスにコンドームのはいったダンボールがおかれていた。

「お、どのくらいくばったんだろ」と思い、あけてみると・・・

2ダースしか減っていなかった。
1カートン中
50グロス(1グロス=12ダース)
1ダース(12)
1箱中コンドーム50個

1カートンの中に3万個のコンドーム。これが2カートン分
つまり6万個のコンドームをもらって100個くばったわけだ。

2ヶ月たった今もオフィスにそのままの何もされないままおいてある。


ウチのNGOはUNの方向か、村人の方向かどっちを向いているのだろうか。

そして、裁ききれない=ウチのNGOの援助吸収能力の低さ
さらに、援助側のモニタリングの欠如なんかを考えてしまう。

かといって、「これ以上の援助効果とモニタリングが可能か?」と問えたとしてもこれ以上は不可能ではないだろうかと思う。
UNからウチの村にまたくるの?
3万個も配れるほど人はいないよ?
配っても、それってちゃんと使われてるの?
このあたりが国際協力の限界であり、この被援助側の能力と仕事効率にあわせて援助側は仕事をする必要があると思う。

まーそういっても、それってすごいストレスのかかることなんですけどね・・・

2011/10/03

援助の下請けその2

援助慣れという言葉をきいたことがあるだろうか?

明確な定義づけがされているわけではないようだが

海外からの援助を受け入れることが長く続くことで、被援助者がオーナーシップ(自助努力とも)を持つ意欲を失ってしまうこと
つまり何らかの働きかけを海外から行った場合に被援助者が「その事業の中心になるという精神」を失ってしまう状態をいう

こうなると、海外からの援助を期待して自分たちで何らかのアクションを起こそうとする人たちがいなくなる。
こういうことが、現場で目立ちはじめたことから「オーナーシップ」という題目が世銀が提唱したComprehensive Development Framework(包括的開発枠組み)の項目2に入ることになった。

実際、この援助なれを目の当たりにする。
ただ、この援助なれが度を越して援助依存といえる状態になっている。私の配属先NGOでは。


それはなぜかというとウチの配属先に仕事を回しているのが海外の援助団体・機関であり
その仕事というのはある種のモノポリー状態であるからだ。
それは前回のエントリーを読んでいただければお分かりいただけると思う。

でもね。

ウチの配属先をとおしたその先にある人たち。

エイズ遺児であり、学校に行けない貧しい家庭の子供たちであり、村の住民たちである。と私は思っている。

彼らには資源、教育や選択をする機会を得る機会がが少ない。それは間違いない。

その人々が現地NGOの顧客であり、サポートしてもらう人々であると私は思う。

「援助依存」の定義はわからない。
だけど、援助依存度は
現地NGOがどれだけ自分の顧客(活動の対象とする人々)の方向を向いて全力で活動しているか
によって測れるのではないだろうか。

某王手NGOからの委託ワークショップをするウチのスタッフ
次回はうちの配属先の援助依存の一例を挙げたいと思う。そして、先進国および国際援助機関の限界も知っていただけると思う。

2011/09/27

援助の下請け その1

私はウガンダ人のウガンダ人によるウガンダ人のためのNGOに配属されている。
あえて名前はふせることにする。援助をしないことが今後のこの団体のためになると思っているからだ。
その理由は「援助の下請けその2」で。

このNGOの主な活動は孤児院の運営。そのほかに海外の各援助団体からの依頼をうけてワークショップを開催したりしている。また、ネットワーク型NGOとしての側面もあり、海外のNGOがルウェンゴ県内のNGOや村人へ支援する際にウチのNGOを通して広く援助をしたりしている。

そのような県内NGOが集まる会議やワークショップに参加させてもらって思うことは

現場のNGOって援助産業の下請け会社

ということ。

UNなんかの大企業から、資金や物資をもらって、それを消費者に提供する仕事。それが現地NGOの仕事。海外援助団体からの資源を被援助者へ届ける仲介会社。

NGOという特殊性からか、現地NGOは自らの団体で資金をつくろうということを考えていない。
(注:NGOはお金儲けをしてよい。ただし、その収益を構成員に分配してはならない。収益は全て事業へ)

自己資金や自主財源が少ないのは日本や海外のNGOでも同じことだとおもう。
自己資金を作ろうという努力なしにはその団体の存続はあぶない。
「資金はドナーからもらうもの」という認識を持っているのが、ウチのNGO。

当たり前ちゃ当たり前なんだが、日本にいた時は想像ができなかった。
現地NGOも被援助者なんだ」って思っていた。
しかし、実は現地NGOって被援助者でなく、「援助する側」なのだ。

この視点なしには海外の各援助・ドナー機関は「援助する側」として最良の意思決定はできないと思う。
そして、この状態を好転に向かうきっかけを作ることが私の仕事だ。

2011/09/07

あるのは生と死。それだけ。


学期休みも先週でで終わり、昨日から学校がはじまった。
この1ヶ月間学校外のNGO活動や先輩隊員の中間報告会など業務的なことをやりつつ
遊びもした。


8月サファリしてきた。


ウガンダにしかいないコブっていう牛科のシカぽい動物の食事と交尾




エドワード湖畔でのんびり寝るカバとその周りを飛び回るヤマセミ




そしてゾウが水浴びをするとなりでぶくぶくと体を膨らませ、白く腐らせて浮かぶカバ



サバンナの平原で肝臓をライオンに食われ、目をハゲタカにえぐられたブッシュバック



2匹でじゃれ合い、何食わぬ顔で寝るメスライオン




足音を立てず、だが急ぎ脚で歩くゾウ


そんな動物たちが生きるアカシアが点在する大平原





死に逝くのをただじっと待つバッファロー

雄のバッファローは群での地位を失ったり年老いたりすると、自ら隠居して群から離れ、一人で暮らす。

そして死をまつ。



















「人生観が変わった」なんて大それたことは言えないけれど、一つの別の視点をもらったきがする。

ただ、生と死があるだけの世界

人間だってそうかわらない

そう感じ取れば先週乗った12人乗りカローラなんてかわいいもの

骨盤がきしむのは

ウガンダ人みたいに裏返った声で「ア」とか「アイヤー」なんていっちゃうね。








赤道をまたぐ私
















2011/08/20

マーケットの歩き方 チワンガラ村


わがチワンガラ(Kiwangala)村では毎週土曜がマーケットの日。
日本に比べると海外のマーケットは歩くだけでも楽しいもの。
そんなマーケットの歩き方を紹介します。

まずはスナック
食べ歩きは行儀が悪いと教えられるウガンダ。みんなマーケットで買ってもウチまでちゃんと持って帰ります。
これはカデンゴと呼ばれる食べ物。はじめてみたので買ってみました。2個で100ush(約4円)
お米を丸めて軽くあげたもの。黄色くなっているのはターメリックかマサラだと思われます。
味はひと言「まずい」。べちょべちょの冷たい米の塊。「おにぎりに似ている」なんて決していえません。その点冷たくなってもおいしいおにぎりは米料理の王様ですね。
米だときいて4個も買ったのですが、1個食べて3つはお隣にあげました。

そしてオモシロ掘り出し商品
この日はアバクロのTシャツ2500ush(約100円)を購入。
そのほかにパタゴニアのR2のベストがあったのですが、ベストという実用性の無さから未購入。
以前マサカのマーケットではビルケンシュトックのサンダルを4000ush(約160円)で購入。

さらに昨日マサカのマーケットでVirginia Tech UniversityのロンTを購入。
その他University of Louisville のカーディナルスのパーカーを発見。
いつかMurray StateのTシャツを見つけ出すのが楽しみです。
(内輪ネタですみません)
こんな掘り出し物を探すのもマーケットの面白いところ。


最後にオモシロくつ画像でくくりましょう!説明不要です

2011/08/19

グルメレポート Katogo(カトゴ)

東アフリカではタンザニア・ケニアにおされ非常にマイナーな国、ウガンダ。そんなマイナーなウガンダにマイナーだからこその面白さがある!(かもしれない)

活動外のネタがつきてきたので、いつもフレッシュな目を持つという意味でも、こんな企画をはじめます。

ラベルを題して、「ウガンダの歩き方」
別になんの自慢にもならないラベルタイトルですがお付き合いください。
そして日本にいる皆さんに「ウガンダ旅行もいいかも」と思ってもらえたら幸いです。

そんな「ウガンダの歩き方」
一発目はグルメレポート!


日本から見れば未知の料理ウガンダ料理。
その一つKatogo(カトゴ)を紹介します。

カトゴとはマトケ(食用バナナ)を使った料理のことを指すらしく、ソースによって様々な味になります。以前マトケ一株をもらったときに毎日作っていたトマトソースのカトゴのレシピを今回は紹介します。

材料(一人分)
マトケ       15本
トマト        3個
(普通の)玉ねぎ   1個
塩          好み

まずマトケの皮をむきます。ポイントはバナナのお尻の方(普通にバナナをむくほうとは逆)からナイフを入れていくとむきやすいです。緑の皮が残っていたりするとゆでる際に黒く変色してしまうので注意が必要です。こんな感じに黒くなります。(味に変化はありません)

次に皮をむいたマトケをゆでます。
湯で時間は固さによってお好みですが、箸をさして貫通すれば充分でしょう。

火が2つある人はマトケをゆでている間にソースを作りましょう。
トマトいちょう切り、玉ねぎをさいの目切りにしますトマトはピューレの缶詰なんて使うと贅沢感がぐんとあがりますね。

熱した鍋にそれらを入れ、火が通るまで熱します。このさい水分が少ないとマトケと和える際に味が偏ってしまうので水を100mlほどいれてもよいでしょう。

食材に火が通ったら塩をいれます。大さじ3杯といったところでしょうか。
多いように感じますが、このくらい入れておかないとマトケの無味に味を加えられません。

塩をいれ味を調えたらゆでたマトケを入れ、和えます。
少々マトケが崩れても問題ないでしょう。

後は盛り付けて出来上がり。
ブイヨンやペッパーでアレンジをするとさらにおいしくなります。

トマトソース以外にもGナッツソース(ピーナッツソース)や豆ソースのカトゴがあります。



私個人としてはさっぱりトマトソースがお勧めです。

2011/08/16

きわどい遊び


突然ですがクイズです。エリキはシャン太に何をしているのでしょう?答えは最後に。

さて、今回は体罰についてです。体罰は日本でも私が中学生(10余年前)の時ですら議論があったぐらいですし、今もあるのでしょう。


ウガンダでの体罰は日本のそれとは少々違うので紹介します。

一番の特徴は細い棒を使ってぶつこと。ムチ(cane)を先生たちはヒュンヒュンならして
子供をぶちます。ウチの孤児院では子供を寝そべらせ太ももからお尻あたりをぶちます。
子供の反応は本気で痛がるときとへらへらしているときとcase by case。
ぶたれる理由はさまざま
・授業態度が悪い
・授業中しゃべっている
・課題をしようとしない
・忘れ物をした
など比較的しかたないものから

・服装の乱れ(服が汚い)
・手が汚い(洗っていない)
・態度が悪い
など先生側の気分でどうにでもなるような理不尽なものまで

ムチ以外の罰は
ニールダウン(ひざまずくこと)してレンガを持たされる。
腕をのばした腕立て伏せの状態でしばらく維持。体制が崩れるとcaneでぶたれるなど、端から見ると滑稽にも見えてしまいます。

私は体罰については全面否定をしません。
必要なときはあると思います。それは、その子が他人の身に危険を及ぼした時と重度のウソをついたとき。そしてその方法は平手打ち。幸いまだ私はまだ手をあげていません。

牛飼いが棒で牛をたたくように、子供をたたくのを見ていると、人間扱いしていないように私には写ります。

クラスのコントロールをすること、生徒の成績が悪いことなどはやはり教師の責任で子供はクラスを乱して当たり前、勉強したくなくて当たり前ですのでそれをうまくやるのが教師の仕事であり力の見せ所のように思います。

ムチをやめさせることは不可能でしょう。。。
学期初めのワークショップで他校の先生が「caneしたらいかんばい」と言っていたにもかかわらず
2週間後には先生みんなたたいていましたから。頭では駄目だとわかっていても。

悪ガキばっかり。言うこときかない。自分の力の無さを棚上げして(いやそもそもの教師像が私のそれと違う気がします。「ムチを打つ先生がいい先生」というように)子供に体罰という形で責任をとらせる。ムチを使わずにクラスをコントロールし子供をひきつけることのできる先生を目の当たりにすれば
変わるのかもしれませんが。そういう人材はここの周辺にはいないようです。

さらに、体罰の余波が・・・
学校には先生たちの子供がウロチョロしています。全部で4人。
そのうち大人のすることを何でもマネしだす年齢の子がシャン太とエリキ。

ある日ある先生が30人のクラス全員をぶっているのを2人が見て、私のところに来ました
棒を持って。
そして、ボクに棒を持たせ「カイトー、ぶってくれん~」とばかりそのばに寝そべるではありませんか(笑)
一応ぶつフリはしましたが、もはや体罰そのものが子供にかかれば遊びになってしまうことの皮肉に哀しみと諦めを覚えました・・・


しょーもな・・・

2011/08/08

癒しと子供が思い出させてくれるもの

今回は最近のボクの癒しちゃんを紹介します。
同僚BT(仮名)の子シャン太(仮名)と同じく同僚リリー(仮名)の子エリキ。

シャン太は女の子。推定2歳。まだ、あまりしゃべれません。でも、シャン太の目を見ると何が言いたいのかすぐにわかってしまいます。以心伝心というやつです。
喜怒哀楽を無垢に表現する彼女の行動一つ一つがたまらなくかわいい(笑)

エリキは男の子。推定3歳。私によくペットボトルのキャップに入れた土を持ってきて「Ancle Aito, Kuwata」といってよこしてくれる。(彼は僕のことをアイトと呼ぶ)
そしていつも頭の先から砂だらけで白くなってる(笑)肌が黒いから余計に砂埃まみれ加減が際立ってしまう・・・
そんなエリキは甘えん坊。コケては泣き、自分で立ち上がろうとしない(笑)
その点シャン太の方が大人。女の子だからかな。

二人に「高い高い」をよくしていたら、楽しさが伝わったのか最近はボクの手を引いて、ちょっと高くなっているところまで連れて行って
「高い高い」をおねだりする。一日に何回もすると疲れるのだが、心地のいいつかれだ。
シャン太をみてると、大人になるにつれ喜怒哀楽の境界線があいまいになってくるんだと教えてくれる。
「イヤ」を含んだ「ハイ」とか哀を含んだ喜びとか。
シャン太とエリキと触れてると、自分の子供時代の感覚とかをよく思い出す。
昔のことを思い出して、子供ながらの感覚を呼び覚ましたり。
あの時なりたくてなりたくてしかがたなかった大人に今なっている。そしてそのことに感謝している。

そして、シャン太と接していて自分が親になったときのことを空想する。
どんな親になりたいとかって。子供をどんな風に育てたいとかって。
子どもほしい(笑)

最後にシャン太の嫌いなことを一つ。
それはベイジング。お姉さんのシャビーラ(仮名)に学校が終わった後に体を洗ってもらうのだが、それがイヤでイヤでたまらないらしく。いつも泣いてる。そして桶の中で立つ尽くし、石鹸でつるつるした桶の中でバランスを崩しそうになっても必死で直立不動を保とうとするところもポイント。







2011/08/05

初学期終了

今週で学校も終わり。私の教師としてのはじめの学期が終わった。
ウチの孤児院でも期末試験があり、試験監督と採点をした。
私は英語を担当していたのでP4.P5(小学校3年、4年相当)の英語の試験監督と採点、
それとP4の算数の採点もした。

ここでP4英語の珍回答を紹介します!
問題
"Use the following words in a sentence to show that you know thier meaning"
下記の言葉を使い文章を作りなさい。あなたがその意味を理解しているのかを見ます
そして課題は
”Bad”

以下子供の回答
”Bad is Bad”

そりゃそうだ。悪いものは悪い。コレには○をあげました。

”it is to bad”

それは悪すぎ!でも回答はおしすぎ!○をあげたいが文法上間違いなのでペケ。

”My bad words can be most do not better”

これはホントにまよった!直訳は多分「私の悪口は一番ましじゃないにちがいない」。言いたいことはきっと「私の悪口は一番悪い」という風に言いたかったんだと思う。一応比較級・最上級で"worst"を教えたんだけど、"worst"がでこなかったんだね。
そこで、mostとbetterを駆使して考えられた秀逸な文章。その秀逸さに免ずることはできずに
×にした・・・文法あってないしね(笑)

100点満点で最高点59点。平均28点。

採点していて思ったのは問題の意味をほとんどの生徒が理解できていない。
英語で書かれた問題を英語で答えるんだからな・・・

"Re-write giving one word for the underlined group of words"


-My mother's brother has visited us.
-Mr. Ssonko is a man who drives cars. 

下線部を一語で言い換える問題は誰一人としてできなかった。
そしてそれ以前にP4以上は授業が全て英語で行われている事実。
私も授業では英語しかつかっていない(使えない)のだが授業を理解できているのは片手で
収まる人数。

体育もまったくできなかったし、なんかいろいろ宿題をもらった2学期でした。

2011/08/02

病院のあいさつ

先週はじめ、のどが痛くなった。

熱もでた。
37度5分ぐらいまで。
症状は風邪そのものだったので、日本から持ってきた風邪薬を服用して2日寝てすごした。
それでも症状は軽減されずにほっといても治るとはおもっていても
手の感染症のこともあったので、今回は大事を取って病院へ。

病院はマサカにある私立病院。
ドクターに会って症状を訴えると「じゃあとりあえず血液検査しとこうかね」と物腰のやわらかそうなジェントルマンドクター。
”風邪なのに血液検査?”とその意図をすっかり忘れてて言われるがままラボへ。

そこで看護士のニャボのびっくり採血。
日本での採血方法と同様に二の腕にバンドをして肘の血管を浮き上げます。
ただ、”あれ?バンド緩くない?血管あんまりでてないバイ・・・?注射器ちゃんと狙えると?”
一抹の不安を抱えます。
ニャボは淡々と注射器の準備とボクの腕を消毒していきます。
”おお~、しっかり医療行為できとーやん”と上から目線のボク。
そしてチビッと浮き出た血管へ針をそわせていきます。

”確か採血って「その人の腕しだいで痛くもなるし、痛くなくなりもする」って誰かいっとったなー”
針挿入
”あ、痛くない。うまいのか、この人は・・・?”
ニャボ針挿入を止める。
半分引き抜く。
”あ”
ボクの体内で針がうごめく
”あ、グニュって鳴った”
半分引き抜いた針がぐっと押し込まれる。

”あ~あ”

・・・・。

そんな採血を済ませ結果をジェントルドクターへ見せると
「うん、君はマラリアにかかっとうよ。やっぱりね」

「え?うそー。全然辛くないよ?マラリアってもっときついっちゃないと?」
マラリアにもいろんな種類があるけんさ」


アフリカで風邪で病院へ行くと挨拶は「マラリア!」
さあ、みんな一緒に「マラリア!」

2011/07/21

本能という砂の上の家”人間”

ウガンダの高校で生徒がストライキをしたとの記事がNew Vision紙のWeb版を見ていて目に付きました。
”Kibaale school closed over strike”
http://www.newvision.co.ug/D/8/18/760679

ストライキの理由は重度の体罰、課外授業への課金、先生が授業をしないこと、生徒をからかったこと、とあります。

(もし本文を読んだ方で、私の認識違いがあったらご指摘ください)

先生側は「これは政府が学校運営の資金をくれんからだ!」と双方の言い分が食い違っている印象です。

ウガンダでは体罰や先生が授業をしないなんてことはざらにあります。
課外授業への課金は聞いたことありませんが、先生が生徒をからかったってのも「あるんだろうなー」という感想です。

体罰や生徒をからかうことについては別のエントリーで詳しく紹介したいと思いますが、
笑っちゃうようなことでストライキが起こりえるのがウガンダです。

給食がマズすぎて暴動が起こりそうになったとか、寮制の学校では生徒を管理しすぎて生徒が先生にくってかかったとか、
結構聞きます。
まあ、私の親世代の日本の給食も粉ミルクなんかがまずかったってききます。
でも「給食がまずくて勉強なんかやってられんばい!」ってならなかったのはなぜでしょう・・・

隊員仲間と話していて、よく上がる話題ですが、ウガンダの食事は食材はほとんどどこも同じ。食材の質なんて初めからありません。
しかし、作り方によってすごくうまくも、すごくまずくもなるのがウガンダの食事であるように思います。
学校によって炊事番が変われば問題が解決することもあるようです。

管仲が「衣食足りて礼節を知る」といっていました。
ウガンダに来てその普遍性と正確性をまざまざと見せ付けられています。
責務を重んじる心や礼節、仁義、は腹が満たされて始めて成り立つ考え方や理論なのだと。

2011/07/16

援助の正しさ

今回はきわどい内容です。同意してくれないこともあると思います。そして、一息で出来上がった内容でないので支離が滅裂しています。ご容赦を。

援助の行為は大きな矛盾をはらんでいる。少なくともボクの考えと現実世界とでは。

援助(「国際協力」というと意味が変わってくるのでここでは援助としておく)の世界のPRについて考えた、いや前々から感じている違和感がある。

援助関係団体のポスターや広報誌、ウェブを見ると異常なほどに子供の笑顔の写真が多い。それは、ボクがいるNGOではより現実のものとして見られる。

ウチのNGO子供をダシにして、援助をもらおうとしている節がある。ウチのNGOでは子供が”Why children suffer in this world?”とか”Protect their rights”なんて歌詞の歌を歌ってる。
10歳前後の子供が”何で世界で子供がくるしんでいるの?”とか”彼らの権利を守れ”なんていえるだろうか。いや、考えるだろうか。

小学生ってその日その日楽しければそれでいいと思っているし、将来のことや世界のことなんて本気で問題だと思っているわけではない。少なくともボクはそうだった。ただ、漠然と「お腹をすかせた子供が世界にはいるんだ」ってその程度の認識だった。

少なくとも、うちの子供たちが自分たちの権利のことを”our”ではなくて”their”と歌っている時点で歌わされているとボクは感じている。

そんな大人のやり方を嫌悪している。「せこい」って。
じゃあ、自分はそんなことしてなかったか?
日本で活動をしている時、ウェブサイトのの更新時に積極的に子供の笑顔の写真を使ってアップしてなかたかって。それと変わらないと思えてくる。

製造業だろうが、サービスだろうがPRって、どんな内容でも、どんな媒体を使っても、人の感情へ訴えかけるもの。「あ、コレほしい」とか「あ、楽しそう」とか「あ、かっこいい」とかさ。

援助の世界ではその括弧の中が「あ、かわいそう」なだけなんじゃないかって。

人の行動の全ての始まりが感情だから当然といえば当然。
カンボジアでその感情を芽生えさせたボクは今ウガンダにいる。

この同情を求めるやり方をセコイと思ってしまうのは、ボクの感性・嗜好の問題なのだろう。

もしそうなら、ボクはそれが世の中なんだって納得はしないまでも、折り合って仕事をする。
人の感情に訴えかける写真を今のNGOのHPに使うし、そういうブログの書き方もする。
それが組織の、援助の世界全体のためなら。
「アフリカの子供って貧しいんですよ。でも、健気に目を輝かせながらがんばって生きてるんですよ。」どこを見たってこういう論法の訴え方をしている。うそ臭くて虫唾が走る。

それって正攻法なのかな。なんか上っ面を掠め取ってるだけな気がしてならない。

「広報戦略」「武器」と言えば聞こえはいいけど、それで得たドナーだとか、お金って本当にその場所でその時に必要なものなのかな。訴える力を、武器を持たない人が本当に援助を必要としてる人たちだとしたら?

ボクはそれが怖い。

小手先の技術の有無で必要な場所に必要なときに、必要なモノが行き届かないのが。

それは「持っていない者が悪い」ということにならないだろうか。

じゃあそもそも援助って?

持つものから、持たざるものへ、手をさしのべることが援助ではないのか?援助の矛盾がここに潜んでる気がする。

人道的・Humanitarianismを掲げて援助をする誰もが活動をしているのに、そのPR技術や訴える力を持っているところにドナーの目は向けられてしまう。

みんながいいことをしようとしているのに。

力をもたない人々はいるはずなのに援助団体はそこへのアクセス方法がない。

しかし、この矛盾に「発展」という言葉を組み込もうとすると、上の戦略が正当性を持ち始める。


ボクの考える「人道主義」と「発展」の意味の上では、このふたつは時として同居できないものになってしまう。

「まったく持っていない者」より「ちょっと持ってる者」をより持つものへ押し上げてあげようという戦略が援助の世界でBOPの世界で流布している。「発展」を考えると当然のなりゆきだろう。

結局ボクの「感情・感性」と「援助・発展」の間の折り合いのところに行き着くのか・・・

難しく考えすぎだ・・・しかも子供のように
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

ここまで書いて、次の日にぐちゃぐちゃになった頭を抱えて村へ足を伸ばした。

ロレックスというチャパティと卵の軽食を食べながら、なんとなく「これでいいやって」思えた。

自分の中に不動で理想的な「援助の形」とか「国際協力」なんて見つかってはいない。
いやむしろこの2年で見つかるかどうかも怪しい。一生かかっても見えないと思う。

「揺ぎないよりどころ」「腰をすえる場所」はいつでもほしいけれど、それは援助の世界では望めそうに無い。
でもこの場所がー今目の前に広がっているなんとなくヒトが生活している空間がーボクのよりどころで、腰をすえる場所なんじゃないかって。

それは、不安定なものかもしれない。だけどその不安定な中でも、ボクのやるべきことがある。
小手先の援助かもしれないけれど、本当に必要なヒトでないかもしれないけれど、少なくともボクが向き合っている対象にとってボクの必要性はゼロじゃないんじゃないかって思えた。

たぶん、そうやってこの世界でいきてくんじゃないだろうか。

たぶん。ね。


2011/07/15

緑の生活。バナナのお酒。

ニャボの情熱に負け、パッションフルーツを手に入れそこなった私。

時間は12時をまわり「お腹も空いてきたし、マトケの調理をしにそろそろ帰ろうかいな」と思ってはいたものの、次から次へと出てくる出品物に期待をしてしまいます。

農作物しか出てこないのに・・・・
これが、貧乏性と言わずに、どう表現できるでしょう。。。

その、貧乏性が功奏してか、ムチョモと呼ばれる串焼肉が裏手から登場!
さらに、プラスティックのケースからファンタオレンジがおもむろに取り出されます。
「よし!これならいける!」と確信した私は目を細めてケースの中のジュースの種類を探ります。

「てやんでい、そんなケミカル色なジュースは真っ平ごめんだ。」と江戸っ子でもないのに江戸っ子気質が頭をもたげ、物色するのは、緑の山の形をしたヤツ

あ、マウンテンデューですね。

ちなみに略して「山デュー」。
ずっと昔から言い続けて一向に周囲にに定着した様子はありませんが。。。

「あ、あった。緑のヤツ」

ウガンダのいいところを一つ挙げると日本ではなかなか手に入らない山デューがどこでも手に入るところでしょうか。

私はムチョモと山デューのセットの登場を今か今かとまつわけです。
だが、待てども待てども出てくるのはファンタオレンジ・・・
「いったい何本のファンタオレンジがあるとかいな」
と思っているところに、MCのセボが緑のヤツに手をかけました。内心のガッツポーズと財布を握り締める手に力が入ります。

そしてまたもや壁が立ちふさがります。
今度はセボに5500ushで競り落とされるではありませんか!
スタートは1500ush。ボクは競の最初から声を出していたのに、5000ushまで出して。。。
村で買えば会わせて1500ushもしなにのに・・・

涙をのんでいたら、MCのセボが山デューを手渡してくれました。
「涙なんかのまずに、こいつを飲みな」と。
しかも、5000ushで(笑)
競に負けといて負けた値でほしいものが手に入るんだから、ウガンダ人は優しいです。ここも、ウガンダのいいところの一つですね。

ムチョモとマウンテンデューで息を吹き返しました。
「さて、もう少しねばるか」と思ったのはいいとして、実はこの時「帰りどころ」を完全に逸しただけで・・・時計は1時を回ります。「そろそろ帰って、洗濯をしないと」と腰を上げようとしたその時。

歴史は動いた

コーラの瓶につめられたホットチョコレート色をした何か・・・

セレスがこそっと「That's local beer made by sour banana.」
サワーバナナって何?と聞き返すと、ボクのもらったばかりのマトケを指差します。

コレを試さずしてウガンダを知ること無かれ

バッカスが私にささやきます。

そのささやきに耳を傾けている間、競はムチョモとベルというウガンダ産のラガービールのセットに移っていました。

教会でお酒を振舞っていいんですか?

そこはアフリカクオリティー

きっとファーザーも赤道直下で天からじゃ眩しすぎて見えなかったのでしょう。

マトケビールと本日2本目のムチョモを今度は無事にゲット。まずはマトケビールの臭いを確認。
ちょっと青臭い・・・

ボクは青二才。

味は発酵途中の地酒のような酸味。ちょっと白ワインっぽいボディー。
ムチョモを肴にしてもコーラ瓶1本はきつい。

アルコール度数は高くない。それなのに、あっというまに回ってきます。きっとバッカスの差し金だったのでしょう。

それをちょびっと残して、ふらふらしながら立ち上がり、セレスに一言「酔ったから帰る」。
お酒をたしなまないセレスからしたら、「ええ?このタイミングでそんな理由で?」と内心突っ込んでいたはずです。去り際に牧師から、「来てくれてありがとう、屋根代を出してくれてありがとう」とうれしい言葉をいただきました。

私自身クリスティアンじゃないですし、競りで買わなくても、村で安く手に入るものばかりでしたが、経験と村人との交流ということを考えればペイしたんだと感じています。

さて、千鳥を踏む足でマトケを頭に抱え家路についた私。

よくアフリカで頭にものを乗っけて歩いている写真なんか見かけますよね?
あれって結構難しい!
うまく頭の上で安定しない。通常バナナの葉をクッションにしているようですが、それなしでは脳天が痛い。頭上で安定しないので、支える腕がしびれて仕方が無い。

など、ニャボの様に軽々と頭キャリーをするには訓練が必要のようです。

家は村の中心をはさんで教会とは反対方向。村を突っ切って帰ります。

頭にマトケをのせた千鳥足のムズング


これだけで、笑いの種。「なんともおいしいところをもって行ってるんだろう」とほくそ笑んで帰宅しました。村人にちょっと受け入れてもらった気がします。

マトケ一株をもらったのは、「おいしい」とは思いませんがね。。

2011/07/10

緑の生活。情熱のフルーツ。



アフリカには緑のバナナがある。
ウガンダでは、マトケと呼ばれています。

それが突然、家の狭い部屋の一角を占めることになしました。マトケが勝手に歩いてきたわけじゃないんだけど、マサカです。

ついに、マトケ自炊生活がスタートしてしまいます・・・

ウチのヘッドティーチャーのセレス(仮名)はクリスチャン。チワンガラのチャーチへ通っているそうで、今日はそのセレスのチャーチがオークションをするというので、遊びに行きました。

教会の屋根のトタンを買うためのお金を稼ぐため、
みんなでものを持ち寄ってオークションの収益で屋根を作ってしまおうという目論見。

そうくると、日本で言う「バザー」の様な感覚で家庭で使っていないものなんかを持ち寄るのかと私は思ってました。
村人が農家たちだということを想像の外にしていました。




集まっていた品物はマトケ、サトウキビ、キャッサバなどの農作物。パパイヤ、パッションフルーツなどのフルーツ。鶏とヤギという家畜たち。

雑貨を期待していた私は「あ~、競りおとすすものないやん」とつい博多弁が出ちゃいました。

セレスと牧師に促され、屋根が途中までしかない教会の片隅に腰をおろす私。
「フルーツなら落としてもいいか」なんて思ってルガンダが飛び交う中を見守っていると

モンキーバナナ一株が10000ush(約400円)
サトウキビ5本        1500ush (約60円)

確かに村で買うより値段はかなりいい。みんなの信仰心の表れでしょうか。
サトウキビなんて1本100ush(約5円)で買えるのに。
そして、競にかけられる量が家庭用。一人暮らしの私にはどれも半分ぐらい腐らせてしまいそうな量。

面白いのは、マトケ一株と鶏やなんかをセットで競売にかけてます。(上の写真のような状態)
「別々にしてかけた方が、収益はいいんじゃないか?」と思ったのは多分私だけ。

そんな太っ腹な競売を見守って40分ぐらいたったでしょうか。
ふと私の隣にマトケと豆の入ったビーにーる袋が置かれるではありませんか!
マイクを持ったMCのセボがなにやらルガンダで「おまえにやる」見たいな事を言ってきます。
すると、牧師が「日本人の君が来てくれた、たから彼が買ってくれたよ」と教えてくれました。

「え?さっきマトケ一株と鶏で3万シルはいっとったよ?」と内心申し訳なさ
そして「いや、マトケこんなに食べられんばい!!」と困惑。

いや、「ていうか、マトケは好んで食べないんですが・・・」

ウガンダでは鶏は貴重品。鶏のモモを焼いたやつでも2000ushもするぐらい。ちなみに、牛肉o.5kgに相当。これは村で1日で使う金額の90%を占めます。

その後、お返しの気持ちもこめてパッションフルーツ数個に「Nkumitaano!(5000)」
この値段ならいけるだろうと思ったら、ニャボ(女性)が「Nkumitaano bitaano!(5500)」とあげてきたではありませんか。
「こっちは他に競り落とすものがないんだよ!!」とボクも5700とあげていきます。
壮絶なるデットヒートの末ニャボが6500で競り落としました。

よっぽどパッションが食べたかったんですね。その情熱に負けました・・・
その後、パッションの機会はありましたが、私は別のものに気を魅かれました。

つづく。

それにしても、マトケのプレゼントはうれしさあまって憂鬱間100倍です・・・

死に場所を探して

その日、マトケ畑の中にすえられた墓穴のトタンはひどく鈍色に輝いていました。

亡くなったのはウチの生徒のおじいちゃん。
御歳80歳を越えたおじいちゃんだったそうです。

午後授業を終え、3時半過ぎに子供たちとチワンガラ村の西側にあるお宅へ向かいました。
今回はヘッドティーチャー(校長とか、主任みたいなポジション)のセレス(仮名)と2人で引率です。

ウガンダにも香典の文化があります。ウチの先生たちで香典を包みました。
アメリカでは香典の文化は無かったように記憶していますが、ウガンダではお金だけでなく一言メッセージを書きます。
セレスが紙切れに一言書いていました。

お宅ではすでに埋葬をしている途中。
木製の棺桶にトタンと金網をかぶせセメントでふさいでいました。
今回は間近でみることができました。土葬の埋葬はもっと粛々と行われると思っていたのですが、農作業のよう。数人の男たちがスコップ片手に作業をすすめます。
墓穴の隣で土の上でセメントと水を混ぜ、それをそのままスコップでトタンの上にドスドスのせていきます。
セレスもスコップを持ってセメントを放り投げていきます。
墓穴の横に座り込んでいる、子供に容赦なくセメントが飛び散ります。

ボクは内心「あ~あ、服が。」

家路の途中ウガンダの葬式についてセレスがいろいろ教えてくれました。
お金のある家庭は木の棺桶やセメントを用意するそうです。お金のない家庭は木の皮のバーククロスでご遺体を覆い、トタンの上に土をかぶせるそうです。

また、埋葬場所のことも教えてくれました。
なぜ畑の中なのか、墓地は無いのかと聞いたところ
「土地を持っている家庭は自分の土地に埋葬するんだ」
「墓地は土地の無い家庭の人が埋葬する場所だ」
「それに、カンパラに住んで死のうが、自分の土地がチワンガラにあればこっちまで遺体を運んで埋めるんだ」と。

ウガンダ人の土地に対する考え方の一端を見た気がしました。
この国では土地を持つことは死に場所を持つことと同義なのかもしれません。

土地に関して更なる勉強と考察が必要のようです。

2011/07/07

水が(沸)騰

今日村に帰ってびっくりした。。。
物の値段が上がっている。

チャパティは小麦粉の高騰で以前から100ush上昇していたが、ソーダも100ushあがった。
水にいたっては倍! 今まで300ush(これでも他の隊員からは高いといわれる)が一気に600ushに。
300ushって、キャベツが買えちゃうよ?
今日はウチの水汲み屋さんに電話したら「病気だ」といわれたので、他の人を村で捕まえた。

事実ウガンダシリング安がとまっていない。
先週$1=2600ushまで値がさがていた。
今週$1=2530ushぐらいまであがっていたけど、先輩隊員に聞くと半年前より確実に安くなってきているらしい。

ボクは現金収入で生きてるからいいけど、村人は大丈夫か?
自給自足的生活をしている人間が現金に依存する生活をしはじめる予兆か?

こんど、ウチの水汲み屋さんに何であがったか聞いてみよう。
水は絶対に必要なものなのにコレだけの値上がりは異常だ。

2011/07/05

思考停止に陥らない

派遣後3ヶ月がたちました。
そして、次期の隊次、平成23年度1次隊が赴任してきました。
まだまだ知らないことばかりなのに、新米といえなくなるのは複雑な気持ちです(笑)
でも、2年たっても知らないことばかりなのかなと感じてもいます。

今はまだまだ活動でのアウトプットを気にするよりも、知識情報をインプットする次期だとは思います。
ただ、そのインプットは常にしていかなければいけないことかもしれません。

知ることについて、当たり前のことを。
無知の知とえらい哲学者も言っていました。知ることは知らないことの認識からはじまるのではないでしょうか。
その知らないことをいかに知るのか。自己の持っている知識・習慣との「違い」を体験・認識することで無知の知をしることができます。
その違いの体験・認識以外にも自らの無知をしる方法はあるかもしれませんが。

ウガンダでの生活の中で多くの違いを体験しています。
例えば嗜好品。

ウガンダ人は紅茶をよく飲みます。
紅茶の入れ方は粉末にした紅茶葉をスプーンのえで2から3杯コップに入れます。そのあとにサトウキビから精製された砂糖をたっぷり
同じコップに入れます。そしてお湯をそこに注ぎ、かき混ぜてそれを飲みます。
この紅茶の飲み方は日本とは違います。この違いの認識から「なぜ」を自問し始めることによって知を発展させることができます。

なぜ紅茶なのか。なぜコーヒーでないのか。
なぜ紅茶を粉末にするのか。なぜ砂糖を入れてで飲む人がおおいのか。

植民地時代の宗主国イギリスの影響からかもしれません。
コーヒーに比べ紅茶のほうが飲めるようになる行程が少ないからかもしれません。

「なぜ」を自問するとは知るべきことを再認識させてくれます。そうすることで正確な知識を身につけようとする姿勢を保つことができます。
「紅茶を飲むのはイギリスからの影響だろう」と決め付けることは簡単ですしその可能性は非常に高い気はします。
しかしそこでさらに「なぜ」と自問しなくなると思考停止状態に陥ってします。

中途半端に知ることは知った気になり、思考停止になります。
正確な背景を追求することがウガンダを本当に知ることにつながると感じます。当たり前ですけど(笑)