Ennyanja Nalubaale- ビクトリア湖

2011/07/16

援助の正しさ

今回はきわどい内容です。同意してくれないこともあると思います。そして、一息で出来上がった内容でないので支離が滅裂しています。ご容赦を。

援助の行為は大きな矛盾をはらんでいる。少なくともボクの考えと現実世界とでは。

援助(「国際協力」というと意味が変わってくるのでここでは援助としておく)の世界のPRについて考えた、いや前々から感じている違和感がある。

援助関係団体のポスターや広報誌、ウェブを見ると異常なほどに子供の笑顔の写真が多い。それは、ボクがいるNGOではより現実のものとして見られる。

ウチのNGO子供をダシにして、援助をもらおうとしている節がある。ウチのNGOでは子供が”Why children suffer in this world?”とか”Protect their rights”なんて歌詞の歌を歌ってる。
10歳前後の子供が”何で世界で子供がくるしんでいるの?”とか”彼らの権利を守れ”なんていえるだろうか。いや、考えるだろうか。

小学生ってその日その日楽しければそれでいいと思っているし、将来のことや世界のことなんて本気で問題だと思っているわけではない。少なくともボクはそうだった。ただ、漠然と「お腹をすかせた子供が世界にはいるんだ」ってその程度の認識だった。

少なくとも、うちの子供たちが自分たちの権利のことを”our”ではなくて”their”と歌っている時点で歌わされているとボクは感じている。

そんな大人のやり方を嫌悪している。「せこい」って。
じゃあ、自分はそんなことしてなかったか?
日本で活動をしている時、ウェブサイトのの更新時に積極的に子供の笑顔の写真を使ってアップしてなかたかって。それと変わらないと思えてくる。

製造業だろうが、サービスだろうがPRって、どんな内容でも、どんな媒体を使っても、人の感情へ訴えかけるもの。「あ、コレほしい」とか「あ、楽しそう」とか「あ、かっこいい」とかさ。

援助の世界ではその括弧の中が「あ、かわいそう」なだけなんじゃないかって。

人の行動の全ての始まりが感情だから当然といえば当然。
カンボジアでその感情を芽生えさせたボクは今ウガンダにいる。

この同情を求めるやり方をセコイと思ってしまうのは、ボクの感性・嗜好の問題なのだろう。

もしそうなら、ボクはそれが世の中なんだって納得はしないまでも、折り合って仕事をする。
人の感情に訴えかける写真を今のNGOのHPに使うし、そういうブログの書き方もする。
それが組織の、援助の世界全体のためなら。
「アフリカの子供って貧しいんですよ。でも、健気に目を輝かせながらがんばって生きてるんですよ。」どこを見たってこういう論法の訴え方をしている。うそ臭くて虫唾が走る。

それって正攻法なのかな。なんか上っ面を掠め取ってるだけな気がしてならない。

「広報戦略」「武器」と言えば聞こえはいいけど、それで得たドナーだとか、お金って本当にその場所でその時に必要なものなのかな。訴える力を、武器を持たない人が本当に援助を必要としてる人たちだとしたら?

ボクはそれが怖い。

小手先の技術の有無で必要な場所に必要なときに、必要なモノが行き届かないのが。

それは「持っていない者が悪い」ということにならないだろうか。

じゃあそもそも援助って?

持つものから、持たざるものへ、手をさしのべることが援助ではないのか?援助の矛盾がここに潜んでる気がする。

人道的・Humanitarianismを掲げて援助をする誰もが活動をしているのに、そのPR技術や訴える力を持っているところにドナーの目は向けられてしまう。

みんながいいことをしようとしているのに。

力をもたない人々はいるはずなのに援助団体はそこへのアクセス方法がない。

しかし、この矛盾に「発展」という言葉を組み込もうとすると、上の戦略が正当性を持ち始める。


ボクの考える「人道主義」と「発展」の意味の上では、このふたつは時として同居できないものになってしまう。

「まったく持っていない者」より「ちょっと持ってる者」をより持つものへ押し上げてあげようという戦略が援助の世界でBOPの世界で流布している。「発展」を考えると当然のなりゆきだろう。

結局ボクの「感情・感性」と「援助・発展」の間の折り合いのところに行き着くのか・・・

難しく考えすぎだ・・・しかも子供のように
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ここまで書いて、次の日にぐちゃぐちゃになった頭を抱えて村へ足を伸ばした。

ロレックスというチャパティと卵の軽食を食べながら、なんとなく「これでいいやって」思えた。

自分の中に不動で理想的な「援助の形」とか「国際協力」なんて見つかってはいない。
いやむしろこの2年で見つかるかどうかも怪しい。一生かかっても見えないと思う。

「揺ぎないよりどころ」「腰をすえる場所」はいつでもほしいけれど、それは援助の世界では望めそうに無い。
でもこの場所がー今目の前に広がっているなんとなくヒトが生活している空間がーボクのよりどころで、腰をすえる場所なんじゃないかって。

それは、不安定なものかもしれない。だけどその不安定な中でも、ボクのやるべきことがある。
小手先の援助かもしれないけれど、本当に必要なヒトでないかもしれないけれど、少なくともボクが向き合っている対象にとってボクの必要性はゼロじゃないんじゃないかって思えた。

たぶん、そうやってこの世界でいきてくんじゃないだろうか。

たぶん。ね。


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