Ennyanja Nalubaale- ビクトリア湖

2011/06/22

土に還る

ウガンダの田舎ではどこに墓地はあるでしょうか?チワンガラ生活でふと疑問におもったことでした。
家のお向かいでお葬式がありました。

お向かいといってもボクのうちは車が通れる道路から少しうちに入っているので距離は40mぐらい。
数日前、午後の授業中になにやらあわただしいのがみられました。子供たちいわく誰かが亡くなったようだと。
そして4日後木曜日だったと記憶していますが、同僚のテディーが水曜の夕方「明日、お葬式があるから私たちも参加するよ。ぴったり2時からだからね」と教えてくれました。
そして翌日、午前3時に音楽が流れてきました・・・それも結構な音量で・・・
夜中の爆音音楽は毎週2回は平日週末問わず必ずあることですが音楽の内容もいつもクラブから流れてくるレゲエではなく「ハレルヤ」なんて聞こえてくるのでお向かいとだと見て、外にでました。

暗がりの中うごめく幾多の人影。なにやら準備をしている模様。
その夜は用を足して床に入りました。もちろん熟睡なんてできませんが・・・

さて次の日。昼食を終え自室へ帰り2時を待ちます。
ちなみに服装はいたってラフ。同僚にドレスコードを聞いても「適当でいいよ」とのこと。実際参列者の格好もまちまち。
ただ、親族やそれに近い人は襟付きのシャツ。女性はゴメスといわれる正装。肩のとがったロング丈の派手ながらのワンピースドレス。それをビビットな帯で結ぶスタイル。

自室で本を読んで時間をつぶしていた私はうっかり2時を5分ほど過ぎているのに気づいてあわてて外へ。
「ぴったり2時とはいってもウガンダタイム。1時間2時間遅れるのは当たり前。」
その認識はあっさり裏切られ、なんとぴったり2時にはじまっていました。
(普段もこんな感じだと、もっと物事がよくなると思うんですけどね)
そのくせ、ウチの同僚たちが子供を集めて参列したのは2時半ごろ。
詰めの甘さはウガンダ人。

日本のお葬式とは違いウガンダでは外で執り行われるようです。
ブルーシートを家の屋根からかけてその下にご遺体を安置。
ご遺体はルブゴと呼ばれる木の皮で作られた布で巻かれています。その上には2本の木の枝を釘でくっつけただけの「え?そんなんクオリティーでいいの?」な十字架。後になって考えればお金の無い農家ですし、木ならそこらじゅうありますから当然なのかもしれません。それに「自分たちで作ったものの方がいい」と考えたのかもしれませんし。真意はわかりません。
それと生前の写真。この点は日本と同じですね。亡くなったのはおばあちゃんでした。
セレモニーは牧師の説教と鎮魂歌(requiem)の繰り返し。説教の間、歌が歌われていることもありました。

あるところまで進行すると近しい人が牧師のところへ行き、なにかを牧師の手から口へもらって食べていました。

こういう時、アメリカ生活の間に葬式の1つでも出席していれば比較対象があったのでしょうが、無いことを幸いに思いましょう。

そして葬儀は2時間20分ほどで終わりを迎えました。
そして親族が立ち上がり列席者も道を空けだしました。
私は墓地の場所が判明すると思っていたのですが、意外なところにご遺体は向かいました。
その家の裏手にはマトケ畑(緑のバナナ)が広がっているのですがそのマトケ畑の中にすでに墓穴は掘ってありました。
その中にレクイエムを歌いながら安置、木の枝で柱を作りそのうえにトタンをかぶせそして土をかぶせていきます。

土葬のウガンダですからこれを呼んでくださった方が何を感じるかは私とそう変わりはしないと思います。
しかしコレでうまくまわっているのが今のウガンダの社会です。
「このままでいいのか?」と思う材料は人口増加とか土地の問題など挙げればきりがありません。
しかしコレでいままでやってきたのです。

このようなことが伝統ならその他のことでも「伝統」はあります。ごみの処理とか。
そのようなことを「変えることは可能か?」そして「変えることは必要なことか?」ということ。
隊員として活動する上で、いや国際協力をするうえで常に頭においておかなければいけない設問だとおもいます。

後日フィールドワーク中に偶然見つけたお墓

2011/06/05

ウガンダの教育

新学期が始まって2週間が経ちました。
私の活動も本格始動して2週間です。

今回はウガンダの教育について。一般的な面と個別の面を紹介していきたいと思います。

ウガンダの教育は
小学校(Primary)      7年
中学校(Secondary O'level)4年
中学校(Secondary A'level)2年
大学               4年
というようになっています。

授業時間は午前7時から朝課外。
そして8時半から午後4時までです。
その間休みは10時30分からの30分と午後1時から2時までの1時間の2回のみ。
授業間の休み時間、移動時間はありません。

こんな感じ。
7:00-7:40 朝課外
8:00-8:15 朝礼
8:30-9:00  授業1
9:00-9:30 授業2
9:30-10:00 授業3
10:00-10:30授業4





ただし、授業がこのスケジュール通りにいっていることは無く、前の授業しだいで授業をしたりしなかったり。

そして子供にとって最大の課題は小学課程7年を終えた後にある小学校卒業試験(Primary Leave Exam:PLE)。これをパスしなければ中学校へはいけません。
そのほかにも各学年の最後に進級試験がありパスしなければ留年します(基本的には認められていないようですが)

PLEの過去問を買ってみましたが、日本の中学1年生レベルとは思えない問題いくつかあります。
PLEの存在で一般的な学校はそのPLE対策に時間を割くようです。その結果情操教育分野(体育・音楽・図工)などはなおざりになる傾向があるようです。


ここからは私の配属先の孤児院についてですが
私が配属されている孤児院は小学校前(Nursery=幼稚園)の子供、年小と年中から小学校4年生(P5)まで設置しています。
私の孤児院はP5までしか設置していませんので、PLEなどとは無縁のところです。
P5までしか設置していない理由はNGOの運営能力によるものだと思われますが、真意はまだ確認していません。

私はこの2学期は英語・体育・算数を担当していますが授業時間はやはり守られていません。前の授業しだいで私の授業もずれ込んだりなくなったりします。特に体育はやはりなくなりがちです。この2週間で2回しかしていません。
1学年1クラスで約40人ほど。家の手伝いで来たりこなかったりする子供もいます。

授業内容はほぼ詰め込み式。
黒板で説明→練習問題
この繰り返しです。

この教育方法がいいのか悪いのかは別にして
そうなってしまう原因はいくつか見られます。

シラバス(指導要領)がない
ウガンダのシラバスは各学年ごと、各教科ごとべつべつで、全ての教科でそろっているのはP4のみ。その他の学年はあったり無かったり。

テキストがない。
子供がテキストを持っていないので板書して練習問題をさせる必要があること。

机が無い
子供は椅子兼机のベンチに座って授業をうけています。いつでも板書ができる状態じゃない。


特に体育に関しては、今現在私も困り果てています。
指導要領もグラウンドもありません。
あるのは空気のすぐ抜けるボールが数個のみです。



しかし物が無いからできないというのはいいわけです。

できることはあるはずです。

ヒントは自分自身の子供時代の経験だと感じます。

確かに私は団地のアスファルトの小さな交差点でサッカーをしていたし、そんなにいいボールを使っていたわけでもなかった。
それでも、毎日がすごく楽しかったし、それでよかったと思っています。

こどもは場所や器具のよしあしを気にしてはいません。
できること、大切なことの伝え方は必ずあるはずです。

2011/05/18

あいさつの意味

前回のエントリーではウガンダ挨拶に対して私の個人的な面倒さについてでしたが、今回はその奥に秘められたものを感じたので、ある仮説としてみる。

と、かっこつけて言ってみる。

「挨拶とは助け合うことの確認作業である」という仮説である。

その根拠はこうだ。
村ではものの貸し借りがある。
「飲み水をくれ」と隣人から言われることがある。
「電気をくれ」と隣人から言われることがある。
(私は今のところないが)「金を貸してくれ」ということもよくあるらしい。

井戸でくんだ水はそのままでは飲めない。畑仕事をしている子が"Assist me drinking water"といって家へ来たことがあった。

まあ、間違っている英語は目をつむる。ウガンダでは通じているから意思疎通はできるのだが、やはりまちがっている。それを直してあげようとは思わない。

それはさておき、彼はお隣さん。彼には村での生活のことをいろいろ教えてもらった。だから彼の家が目と鼻の先でも、いつも助けてもらっているしいいかと思いあげた。

また、こんなことがあった。
小腹がすいたので400ushだけ持って村の中心(トレーディングセンター)へ。とうもろこしをはじめて買ってみようかと思ったら500ushだった。しょうがないのでチャパティ屋へ。チャパティとは小麦粉を薄くのばして焼いたものでクレープみたいなお菓子だ。いつも料理をする気が起きないとき、村での生活を拒否していた時はチャパティのお世話になっていた。
チワンガラのチャパティの屋台は3つ並んでいる。私はいつも同じところで買っていた。
400ushだと2枚かえる。その日も2枚買うつもりで「二枚くれ」というと。
「お前はいつも俺のところで買ってくれる、俺のカスタマーだ。だから一枚まけてやる」と1枚よけいに包んでくれた。

この水をあげた隣人も、チャパティを1枚多くくれた兄ちゃんも会えば必ず挨拶する人たちだ。

逆の場合を考えてみる。日本の場合だ。
現代の日本で、あなたは隣人との挨拶はどのようにしているだろうか。

「こんにちは、ご無沙汰しています?」と近況の会話をしているだろうか?
会釈だけだろうか?
それても見てみぬふりをしているだろうか?

あなたはもし自分が困ったとき。急にお金が入用になったときに隣にお金を借りに行くことができるだろうか?

これは極論である。

日本とウガンダでは社会システムがちがう。
日本だとお金は金貸しからかりるだろうし、急病の時は救急車を呼べばいい。

しかし、ウガンダでは金貸しから金をかりることができるほど現金収入の余裕があるわけではないし、救急車も走っていない。
だから、バイクやタクシーの人と仲良くしとく必要があるし。
仲良くするために、相手が困っているとき助けないといけない。

”助けないといけない”というと義務のようになってしまうが「友達が困っているときに助けるのは当然だろう」と彼らは言う。

つまり助け合いというセーフティーネットがウガンダにはあるのだ。
日本はその助け合いをシステムにした。社会保障制度というやつだ。

挨拶とはある種助け合いのセーフティーネットの存在の確認作業の機能があるのではないだろうか。

私はあたってはいなくても、大きく外れているとは思っていない。

さてこの伝統的ともいえる社会の中に”モノとカネをもっている”と見える人間がいたらどうだろうか。
そのことについては次回のエントリーで。

2011/05/17

あいさつするのも楽じゃない

ここはウガンダ共和国ルウェンゴ県(Luwengo District)チワンガラ村(Kiwangara)。


アフリカではどうかわからないが、ウガンダでは外国人を見ると「ムズング!」と必ず声をかけられる。
Muzungu=Europeanがもともとの意味らしいが今では「白い外人」と言う意味で使われている。
この”白い”にもレベルはあるようだが、インド人は「ムズング」ではないようだ。

さて、本題であるが、挨拶からストレスが溜まるということと、そのストレス解消方について、私の心の中での出来事とあわせて記そうと思う。

チワンガラでの生活を始めた3日は蚊帳の中で暮らした。
完全に全てを拒否していた。
牛とヤギの糞を踏みしめて行くトイレも、触れば崩れ床を汚す砂も、腰が痛くなる堅い椅子も、さびの目立つドアも、トタン一枚の屋根も。
とくにトタン屋根。雨が降ればうるさく騒ぎ、鳥が止まればこれまたうるさく、夜中風が吹いて屋根と接している木がゆれれば目が覚める。

だから赴任時に持ってきたお菓子と水とPCをベッドの中(蚊帳の中)に持ち込んで、一歩も外に出なかった。

それでも、食料が、水が尽きれば外に出ざるを得ない・・・

不思議なことにこの時期は冒頭の「ムズング!」という呼びかけに快く手を振っていたし、挨拶も快くしていた。

とくに子供は、何回でもボクを呼び止め、振り向かせ、手をふらせる。
別にそれがいやではなかったし、「村の中に」とか「受け入れてもらうため」と思っていた。

いつだったろうか、突如としてそれが苦痛に感じるようになる。
くしくも、料理をはじめ、村の食堂で食事を取り、なんとなく生活らしいことができるようになってきたころだった。

何度も何度も同じ子供が「ムズング!」とボクのことを呼び続けることに嫌気がさすときが多くなっていった。
まあ、誰だって「外人!」だとか"Outsider"って言われて、常にいい気分でいられる人はいないだろう。
とは言っても、こちらの気分で子供の挨拶を無下に扱うわけにもいかない。

なので使い分けることにした。

1."Muzungu"だけの呼びかけには遠くなら気がつかないフリをする。
2.それに"How are you"がつくと、はるか後方からでも振り向いて手を振る。
3.前方からならどちらもなるべく挨拶をする。ただし気分が落ちているときは手を振るのみ。
4.一緒に歩こうとする子供には元気?ときく。
5.気分に余裕があるときは可能な限りちゃんと挨拶をする。

理想は当然5の状態だ。最近は慣れたせいかあまり苦痛には感じない。面倒だとは思うが。
常にそういうわけにはいかない。

根本的なところになるがボランティアとか人のために何かするというのは自分自身に気持ちの余裕がないとできない。
であるなら、「自分の気持ちの余裕の持ち方」、言い換えれば気分転換の方法を見つける必要がある。

今までなら体を動かすことと本屋とカフェのはしごだったのだが、本屋とカフェはない。
ランニングならできるが、そとを走るとやはり「ムズング!」と声をかけられる(笑)

「走っているから呼びかけにはこたえない」っていうスタンスで走ってみるか・・・
それを明日試してみよう。

2011/04/15

マケレレの洗礼

前回のエントリーのその後・・・

「ボクはついている」って話。

スラムを突っ切りマケレレ大学へ。
マケレレ大学はタンザニア初代大統領ニエレレやウガンダ初代大統領オボテなど東アフリカのリーダーを多数育て上げた東アフリカNO1の伝統校だ。

現在でもケニアのナイロビ大学、タンザニアのダル・エス・サラーム大学とともに東アフリカTOP3を誇っている。

ちなみに、現ウガンダ大統領ムセベニがダル・エス・サラームを卒業したことはウガンダ人のネタになっているようだ。

ともかく、我々はその伝統校のキャンパスを申し訳なさ程度にの裏門から入った。
ウガンダ人3人JOCV3人のパーティーだ。

ウガンダの交差点に信号はなく大体ランドアバウト。 フランスの凱旋門がラウンドアバウトだ。

大学の中にもランドアバウトがあって、キャンパスを進むうち我々はラウンドアバウトを横断した。
その際、車が接近していた。
こちらは車優先の社会。人が走らなきゃ轢かれる。
斜めに道路を横断していた私は直角に横断するように進路を変更。
大きな木の木陰に入るようにした。

歩道に上がって3歩ほど歩いただろうか、

「バタバタ!」と雨が肩を強く打つ音が聞こえた。

確かに雨は昼ごろ降っていた。しかしそのときは晴れていたし日差しが強く蒸し暑かった。

鳥のフンだった。
ただの鳥じゃない。アフリカハゲコウ。羽を広げると1mを超えるでかい鳥だ。
カンパラにはいっぱいいる。でかいカラスみたいなもんだ。

肩がけしたボディーバックから肩にかけ、緑とも白ともつかない色の液体がのっていた。
そして、手に持っていたレインウェアにも。

私の第一声
「S○it」
これは2つの意味が含まれている。
ウガンダ人の友達の第一声
「Sorry」
その後笑い。

「He welcomes you to Makerere」

いやな気持ちもあった。
だけども、ウガンダ人に受け入れられたという気持ちが大きくなんだかうれしくなった。
フンを落とされてうれしがっているのだ。「おいしい」と。

今考えるとなんとも自分がこっけいに見える。
だけど、これは体を張った異文化適応方法なのだ!
と言い訳をしたい。

ボクはウガンダで洗礼を受けた。

だから、うんがついている。
2つの意味で、うんがついている。